釈正輪老師回顧録

運命と宿業 1.導かれて
私が最初に行った山岳行場は白山だった。
天台宗の修行僧だった当時の私にとって、白山は是非とも登っておきたい山の一つだった。白山には三度登頂したが、二度目に登ったときに不思議な光景を見た。

未明の山頂で御来光を待ちながら読経をあげていたときのことである。空が白々と空けてくる頃、北の山肌に人影がぼんやりと立ち現れ、その周りを後光のような光の輪が囲んだ。いぶし銀のように輝いて見える影の形はちょうど御仏の座姿のようであった。
これはブロッケン現象と呼ばれる自然現象なのだが、そのときは知識がなかったので、とても神秘的な体験に思えた。実は光の屈折が作り出す蜃気楼で、人影に見えたのは自分自身の影だった。山を降りてそれを聞かされたときは、ひどくがっかりしたことを覚えているが、貴重な体験だった。この現象は御来迎(ごらいごう)とも呼ばれ、昔は阿弥陀如来が姿を現したと考えられていたそうだ。

不思議なことは、三度目に白山に登ったときにも起こった。やっとの思いで山頂にたどり着き、息も絶え絶えにリュックサックを下ろし座ろうとしていたときに、何処からともなく「こうか、こうか」と言う声が聞こえた。 その時は気のせいだと思い、あまり気にも留めなかったのだが、下山のとき七合目あたりで、「こうか、こうか」と繰り返す声がはっきりと聞こえた。私は不思議な心持に囚われたまま山を降りた。

1. 導かれて 2
その声のことがいつまでも気になっていた私は、実家に帰った折、母にそのことを告げた。
おかしなことを言うと返されると思っていたが、母の返事は意外なものだった。
「それは高賀山のことやろう」と言った。
「高賀山てなんや?」
「洞戸(ほらど)の高賀山やがな」
「実家のある洞戸か?」
「そうや」

両親の実家は岐阜の洞戸(現在は関市洞戸地区)というところにあった。
子供の頃によく訪れた土地だが、高賀山のことはそのときまで知らなかった。
しばらくしてから、岐阜市内にある自宅から車で一時間ほどかけて、その場所を訪れてみた。
国道265号線を板取川に沿って北上すると洞戸村に着く。
高賀山はその北端にあった。

1.導かれて 3
標高1224メートルのその山は岐阜県の中濃地区で一番高い山だ。
瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)と共に高賀三山と呼ばれ、大きな山塊をなしている。

山腹には高賀神社があった。
神社の近くに円空記念館があって、この場所が円空ゆかりの地であることが分かった。
円空とは江戸時代の前期に活躍した天台宗の僧侶で、「円空仏」とよばれる多くの木彫りの仏像を作った仏師として知られていた。
美濃国(現在の岐阜)に生まれ、白山信仰の修験者(しゅげんじゃ)となった。

修験者というのは一つの寺に定着せず、あちこちの霊山を巡り修行するものをいう。
円空は日本各地を巡り仏像を残した。
その数は十二万体におよぶという。
その彼が晩年を過ごしたのが、高賀だった。

私は記念館に納められた三十体あまりの仏像を眺めて大きな感銘を受けた。
円空は優婆塞(うばそく)の修験者から、後に禅・真言密教を経て、天台宗寺門派の僧侶になっていくのだが、私も同じ経験をしていることを思うと強い因縁を感じずにはいられなかった。
優婆塞とは在家の仏教信者のことだ。

1. 導かれて 4
私は禅宗から仏門に入り、この場所を訪れたときは天台宗の修行僧であった。
後に真言宗の修行をすることになるのだが、関心はつねに山岳信仰にあった。

私はその頃、毎月どこかの山に登っていた。
帯広の剣山、出羽三山、富士山、立山、木曾御嶽山、伊吹山、養老山脈、御在所岳、熊野三山、葛城山、四国の剣山、石鎚山、英彦山、求菩提山、開聞岳、などである。
修行で訪れた場所でもあり、普通の登山の場合もあった。

最初に訪れてから私は『洞戸村史』等を手に入れ高賀山を調べ始めた。
するとそこが、かつて白山の禅定門(ぜんじょうもん)と呼ばれた山であることを知った。
この地には奈良時代の中期から多くの修験者が集まり修行の場とした。
修験者は高賀山を入り口にして峰々をつたい白山まで行ったそうだ。

私は何度か高賀山に登り白山への道を探したが見つけられなかった。
しかし、その頃には高賀という山の魅力にとらわれ逃れられなくなっていた。
調べるほどに、この土地と私の因縁が深いことがわかってきたからだ。

2. 因縁
私の俗名は武藤であるが、この地には多くの武藤姓が住んでいた。
私は自分の先祖を調べて、五代前と六代前、七代前の先祖に僧侶がいたことが分かった。
五代前は禅海道喜(ぜんかいどうき)禅師、六代前は豊恂義覚(ほうじゅんきかく)大和尚、七代前は慈海了空(じかいりょうくう)大禅師と名乗る江戸時代中期の人だった。

慈海了空大禅師は真言密教を研鑽し、後に天台宗の僧侶になり晩年は禅師の号を授かり七十四歳で遷化(せんげ:亡くなること)した。
慈海了空大禅師は高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)の三山を一昼夜山駈けし、六神社を参拝する抖藪行(とそうぎょう)の中興の祖であった。
抖藪行(とそうぎょう)とは歩く修行のことである。

長良川と板取川に挟まれた高賀山脈には、高賀山の山脈に高賀神社があり、山の北側に本宮神社、新宮神社、東側には星宮神社が鎮座し、瓢ヶ岳の南の山麓には金峰神社、今淵ヶ岳の南の山腹には瀧神社がある。
この六社をめぐる「高賀六社めぐり」という信仰集団が形成され、江戸時代の中期から後期にかけて活躍した。
慈海了空大禅師はその中心的な存在だったと思われる。

3.神仏習合
神社仏教の修行の場となるのは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)という日本独特の信仰形態があったからだ。
渡来の宗教である仏教は古来の神道融合し、神と仏は同等のものに考えられるようになった。
奈良時代から神社には神宮寺といわれる寺が建立された。
高賀山にも養老7年に蓮華峯寺(れんげぶじ)という神宮寺が創建されている。

修験道とよばれる山岳信仰もまた神仏習合思想によるものだ。
山を神とする古来の信仰に、神道、仏教、道教などの思想が組み合わさったこの独特の宗教は、奈良時代に確立した。
白山信仰が有名だが、高賀山も高賀権現(ごんげん)として奈良時代から信仰されてきた。
権現とは神の仮の姿をいう名前だ。
修験道の実践者を修験者(しゅげんじゃ)といい山伏(やまぶし)ともいった。
彼らは山に籠もって修行をすることにより、様々な「験」(しるし)を得ることを目的とした。

慈海大禅師は高賀山で千日回峰行を三度満行(まんぎょう)したとつたえられている。
千日回峰行とは、千日の間休むことなく山の峰を歩くとそうぎょうである。
相応大師が比叡山で始めた回峰行が現在まで伝わり有名なので、千日回峰行というと比叡山の専売特許のように思われがちであるが、全国にはこのような山岳霊域が五十以上あると言われている。
いつしか私は、先祖である慈海大禅師が高賀山で行った千日回峰行を復興したいという思いに囚われた。

4. 木作 1
初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。

当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。

千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?

4. 木作 2
木作という地名は、ここが木地師(きじし)の里であったことを表している。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。

5.千日回峰行 1
千日を行う前に、百日の前行、四十九日の加行を修し、武藤宮司から初めて入峰を許された。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。

私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。

高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。

5.千日回峰行 2
山の中腹に不動の岩屋と呼ばれる場所があった。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。

吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。

御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。

私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。

6. 定め
行を行うものはそれによって得られる名誉栄達を求めていると思われがちだが、そうではない。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。

人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。

千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。

我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」

これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。

私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。

7.夏の光 1
高賀山での夏のご来光は五時半だ。
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿?如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。

早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。

7. 夏の光 2
私は腰を上げて、熊笹に囲まれた登山道を下り始めた。 御坂峠に差し掛かると、あたりは杉や檜などの人工林だ。 この先に峰稚児(みねちご)神社がある。大きな岩の上に立てられた小さな祠だ。 高賀神社の奥の院として、かつては多くの修験者が訪れた。 江戸時代には円空上人による雨乞いの祈祷が行われたという記録もある。 私はここでも法螺貝を吹き祝詞を挙げた。

登山道を五合目まで下ったところに不動の岩屋がある。中に入り蝋燭を立て読経をする。 しばらくの間、姿が見えなかったマムシたちが、また現れるようになった。マムシは三匹おり、それぞれの縄張りである岩の間に寝そべっていた。当初はとぐろを巻き警戒する様子を見せていたが、私が毎日そこに現れることがわかると、体をだらりと伸ばし鎌首をもたげることもなく、静かに私の読経を聞いていた。

岩屋を出て沢沿いの坂道を下る。足で岩を捉えて降りるのだが、毎日繰り返しているうちに、どこにどんな石があるかすっかり覚えてしまった。いまでは目をつぶっていても歩くことができるほどだ。
暑さで汗をかいていたが、岩の下を流れる水の音が涼しげで心地よい。

藪の中で猪が地面を掘っているのが見えた。ウリ坊を二匹連れているからメスだろう。 そのウリ坊がとてもかわいいのでしばらく見とれていたが、親猪が気配に気がついてこちらを見たので、あわてて足早にその場を立ち去った。野生の動物は目を合わせると危険だ。

途中、双葉葵(ふたばあおい)が群れて生えている場所を通ったが、葉っぱが食べられていて葉柄だけが残っていた。おそらく鹿だろう。 秋に日本カモシカが五、六頭で群れを作っていたのを目撃した。群れを見るのはとても珍しいことだ。

沢に小さな渡し木がかかる場所があり、その近くの岩の上でガマガエルが私を出迎えた。一匹の同じガマガエルがいつも同じ岩にいて、私が近づくと必ずホーッと鳴く。
このガマガエルの頭を撫でるのが私の日課だった。ガマガエルの皮膚はぬるっとしていて、確かに油を出しているようだった。ガマの油というのは本当に効くのか試してみようと、笹の葉で切った腕の傷に塗ってみたことがあるが、真っ赤に腫れ上がってしまった。ガマの油の口上はあまり信用がおけない。

木の上から山蛭が落ちてきた。山蛭は、私が下を通ると狙い定めたように首筋から背中に入った。私が山を降りて装束を脱ぐ頃には、沢山の血を吸い、真っ赤に膨れあがっていた。多いときには二十匹もの蛭が体に張り付いていた。吸われた後の痛みもさることながら、白い装束が赤く血で染まるのが困り物だった。

沢地を抜けると人工林が続く。現在の高賀山は、杉や檜などの針葉樹の植林が進み自然林が少なくなっている。人工林には野生の動物が住むことができない。最近はこれらの動物らが里に現れて、作物を荒らしているという。山奥に食べ物がなくなったせいだ。林道を通す計画が修行をしているこの時期に始まったが、それが出来ることによる自然破壊を思うと私の心は痛んだ。

8. 甘露の雨 1
暑さや寒さには慣れたが、雨の日は辛かった。
修験専用のビニール製の合羽があったが、風のある日などは役に立たず、装束は濡れるとずしりと重くなった。大雨の日など水が濁流になって山道を落ちてくる。
下山のあとに、泥だらけになった衣を洗濯するのだが、替えの衣をいくつも持っているわけではない。だから雨の日が続くと、生乾きの衣を着る羽目になった。毎日の洗濯も大変だった。叔母がやってくれることもあったが、なるべくならわずらわせたくないと思い、自分でやった。

地下足袋は底がゴム製で修験専用の丈夫なものを選んだが、それも月に二、三足は履きつぶしていた。布の部分が破れ、そこから川蛭(かわひる)が入って来た。
川蛭は脚袢(きゃはん)の下をくぐり抜けて腿のあたりまで登り、血を吸った。川蛭は梅雨時には増えたので、山から降りて装束を脱ぐと、よく足にへばりついていた。大きいものは三十センチぐらいあった。

足に出来た肉刺(まめ)が潰れ、その潰れた肉刺の上に新たな肉刺が出来た。托鉢で鍛えた脚であり、千日行を始める前の準備として、すでに百日行を行っていたが、やはり毎日休みなしに続けるのは体に堪えた。風邪を引き、熱を出したこともあったが、休むわけにはいかなかった。
誰が見ているわけではなかったが、仏さまは見ていると思っていた。

8.甘露の雨 2
(妙法蓮華経薬草諭品第五)

其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬草 大小諸樹
百穀苗稼 甘蔗蒲萄 雨之所潤 無不豊足
乾地普洽 薬木並茂 其雲所出 一味之水
草木叢林 随分受潤 一切諸樹 上中下等
称其大小 各得生長 根茎枝葉 華果光色
一雨所及 皆得鮮沢 如其体相 性分大小
所潤是一 而各滋茂

「其の雨普等にして 四方倶に下り 流樹すること無量にして 率土充ち洽(うるお)う  山川・険谷の 幽邃(ゆうすい)の生いたる所の 卉木・薬草 大小の諸樹 百穀苗稼   甘蔗・葡萄 雨の潤す所 豊かに足らざること無く 乾地普く洽い 薬木並び茂り   其の雲より出づる所の 一味の水に 草・木・叢林 分に随って潤いを受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に称(かな)ひて 各生長することを得 根・茎・枝・葉・華・果・光・色   一雨の及ぼす所 皆鮮澤するところを得 其の体相 性の大小に分れたるが如く   潤す所是れ一なれども 而も各滋茂するが如く」

(雨が降り始めると、その雨は隈なく四方に等しく降り注ぎ、全ての土地が雨の潤いを受ける。
山も川も険しい谷の奥深い所の草・木・薬草や大きな木や小さな木、いろいろな穀物や甘蔗やブドウの木や植物は全て雨の潤いを充分に受けることになる。
乾いた大地も潤い、そのお陰で薬木も繁ってくる。
雨雲からの『一味の水』によって、草や木や藪や林等がそれぞれの分に従って水を吸収するのである。
その結果、一切の木々は上中下一様にその大小の性質に従って伸びることになる。
根や茎や葉や花も実も皆、雨に濡れて美しい光沢を帯びる。
草々や木々はその種類によって大きくなるもの、小さいままのものと分かれており、同じ雨、同じ水を同じように受けてもその成長はそれぞれ異なるのである)

8. 甘露の雨 3
雨が冷たくても、それは甘露の雨だった。
なぜ千日回峰行をやろうと思い立ったかと聞かれるたびに、私はこう答えている。
それはわが人生を恨んでのことだと。

父の因縁が常に私に覆いかぶさっていたが、なぜか父を恨む気にはならなかった。
私が恨んだのは、私の運命だった。
なぜ私は生まれてきたのか。
私は何をしようとしているのか。

私は禅宗でも天台宗でも真言宗でも修行をした。
そのどこでも私の素性が問題にされた。
私は父の代わりに師を求めた。
しかし、私をかわいがってくれた師達は皆、すでに亡くなってしまい、私は自分の居場所を探していた。

そして、武藤一族の因縁の地である高賀こそが私の居場所だと思った。

9. 孤独 1
修行も二年目に入ると体がきついということもなくなったが、今度はどうしようもなく人恋しさが募ってきた。

深夜に登頂を始め、下山をするのは昼頃。山の中で出会うのは動物たちだけだ。

不動の岩屋にいるマムシたちに対しても、次第に情がわいてくる。 私は里から生卵を持ってきて、岩屋の中におくようになった。翌日にはその卵は消えていた。マムシ達には縄張りがあるらしく、最初に私が卵を一つだけ置いた場所には体の大きなマムシが居座るようになった。

私はそれから三匹のマムシのために三個の卵を持ってくるようになった。するとしばらくしてマムシの数は四匹になった。彼らは声を出さないが、明らかにお互いの意思の疎通をしていることもわかった。四匹のマムシに卵を運んでいると、マムシの数は更に増え、五匹になった。私は体の小さなマムシのために、鶏の卵とは別にうずらの卵を用意した。

9. 孤独 2
子供の頃、祖父と山に入り捕まえては焼いて食べたマムシだが、もう彼らを食べたいとは思わなかった。彼らは私の修行中の孤独を慰めてくれる貴重な友達であった。

沢でいつも私が通るたびに鳴いて迎えてくれるガマガエルも友達だった。いつもの場所にいないと不安になって姿を探した。そして姿を見つけると、ほっとして、嬉しくなった。

小鳥の囀りも、姿がみえなくても、声を聞くだけでいつもどの鳥の鳴き声かわかた。その鳴き声は、私に声をかけてくれているのだとわかった。

私は動物達に接しながら、逸外老師に与えられた公案の答えを考えていた。「犬にも仏性があるか」という「問い」は、そのまま動物達にもあてはまった。私は彼らにも仏性があると思うようになっていた。彼らと親しむことは修行の楽しみとなった。

10. 泉
昼に家に戻り、夕方五時に就寝するまでの数時間が、私の休息時間だった。
その間は仏教書を読んだり、ビニール紐で草鞋(わらじ)を編んだりして過ごすのが常だった。
たまに村人が訪ねてきてくれると、とても嬉しかった。

毎日五時に就寝し、八時間ほど寝て、深夜の一時に起床する。
いつもはそば粉とこうせん粉の団子を作るのだが、たまに塩おむすびを作ることもあった。
作務衣を着て家を出て、高賀渓谷で禊を終えた後、その場で修験装束に着替えた。

牛戻し橋を過ぎた場所に小さな泉があった。水はポコポコと音をたてて湧き出していた。周りには山葵(わさび)が自生し、イトヨという淡水魚が水中を泳いでいた。
私はそこで水を汲んで高賀神社にお供えをしていた。 お供え水のことを「閼伽(あか)水」という。修験道では、この閼伽をとても大切にする。その水は飲んでもとてもおいしかった。

私が毎日その閼伽水を汲んだ場所は、土地の人もほとんど知らなかった。
私はこの場所がとても気に入っていて、蓮華峯寺を再建するならば、是非この場所に建てたいと思っていたほどだった。

11. 不動の岩屋 1
目覚めるといつも力が漲っていた。すぐにでも山にいだかれたいという思いにとらわれる。月の出る夜は、昼間のように明るく岩々の肌理(きり)を黄色く照らす。
黒々と茂った草々は朝露に濡れ、その匂いが鼻腔を突いた。私の息は次第に荒くなり、汗ばんだ頬を風がやさしく撫でた。水気を含んだ空気が喉の奥の毛氈(もうせん)に触れ、渇きを癒す。

不動の岩屋に籠もり読経をする時間は、休息の時でもある。私は暗い窟のなかで心地よい疲れを感じながら安心していた。岩屋は昔から、修験者の修行場であり、旅人の休息の場であった。雨の日はこの岩屋で炭を起して暖をとることもあった。
雷や嵐の時には、ここに逃げ込めば安心だった。私は霊山とよばれる山をいくつも登ったが、不思議なことに、どの山にも五合目から上のあたりにこの岩屋に似た自然の巌窟があった。

私は何度かこの岩屋に救われたことがある。秋口のことだった。
この岩場を過ぎて御坂峠に向かう急勾配を歩いていると、猪が懸命になにかを食べている場面に出くわした。私が近づいたことで猪が振り向き、目と目が合った。
野性の動物は目が合うと相手を脅かす習性がある。猪は耳を立てて私を威嚇するしぐさをみせた。私がそ知らぬ顔をして通り過ぎると、猪は少し離れた藪の中を私に平行して歩いている。私は猪のほうを見ないように気をつけたが、猪がこちらを睨みながらついてくる気配を感じた。

私はゆっくりと後ずさりをした。低いうなり声を発し、猪は私をめがけて突進してきた。私は体をひるがえして急勾配を一目散に駆け下りた。後ろから私に向かって迫ってくる音が、ドッ、ドッ、ドッ、と聞こえた。 私は不動の岩屋の近くまで駆け下り、木から垂れ下がっていた蔦につかまると、ターザンさながらに飛び上がって、岩屋の上に飛び降りた。猪は岩屋の下をまっすぐ走り抜けていった。

11 不動の岩屋 2
月の輪熊に出会ったこともある。それは十一月のことで、熊は冬眠の前だった。
やはり峠に向かう勾配を登っているときに、熊が草叢の中に腰掛け、自分の手を嘗めている場面に出くわした。それまでになんどか見かけたことのある熊だった。懸命に手を嘗めているしぐさがなんとも愛らしく、私は足を止めてしばらくその姿を眺めていた。すると熊がこちらに気がつき、目が合った。
「しまったっ」とおもった。

私はすぐさま危険を感じ、下に向かって駆け下りた。熊はうなり声あげて向かってきた。私は木の枝につかまりながら、岩と岩の間を飛び跳ねていった。人はこんなこともできるのだなと我ながら感心するほどに、私はすばやく駆け下り、崖に回りこんで不動の岩屋に登った。熊は岩屋の下の道を止まらずにまっすぐに駆け抜けていった。

後に大峰山奥駆(おおみねさんおくがけ)で修行をしたときに、大日岳から前鬼坊の太古の辻までをどれだけの時間で駆け下りることができるか、競争したことがある。普通の登山者は一時間から一時間半かかるといわれる距離を、修験者は山駆けして四十分ほどで下りる。私は木の枝をつたい跳躍をくり返し、二十分で駆け下りた。修験者が天狗に例えられるのも、故のあることだと思った。

12 小さな見性 1
高賀山は、閉ざされた山というわけではなかったので、登山者と行き交うこともあった。

修行を始めて二年目の夏に行き交う登山者の数が急に増え始めた。登山者たちが私を見て、「新聞にでていた行者さんだ」と囁く声が耳に入ってくる。後に知ったことだが、趣味で山の植物の写真を取りに来ていた中日新聞の記者が、修行中の私の姿をたまたま見かけカメラに収めたそうだ。それが記事になって掲載されたことを、記者本人が何年か経ってから連絡をしてきた。

記事がでてしばらくしてのことだと思う。私が高賀渓谷で禊をしている最中に、渓谷を見下ろす橋の上に、テレビ局の車が留まっていることに気がついた。その時は自分のことを撮影しに来ているのだとは思わなかったが、村人に、地元テレビ局のニュース番組に出ていたことを知らされた。

それからその橋には見物客が溢れ出した。多いときには三十人ほど集まった見物客は、それぞれに私に声をかけてきた。修行の最中は無言であることが基本なので、声をかけられてもそれに答えることはしない。取材のためにマイクを向けられたこともあったが、私は軽い会釈をしただけで、通り過ぎた。

12 小さな見性 2
しかし、見られたいることは励みになった。
禊で唱える真言にも自然に力がこもった。

土曜日、日曜日ごとに見物客は増えた。不動の岩屋に行くと、先回りをして待っている者たちも現れた。私は無言のまま、何人もの同行者を引き連れ山に登ることもあった。写真を撮られることは日常茶飯となった。当時の私はちょっとしたスターであった。

注目されることは嬉しいことだった。しかし、比叡山で修行をしていたならば、もっと大きく報道されただろうし、身の回りの世話をしてくれる人が常にいて、修行だけに専念できる。山に登るにしてもお付きの人達と一緒だ。彼らは冬に休みながら千日を七年かけて行えばいいが、私は千日を冬場も休まず三年でおこなわなければならない。
そして、満行の暁には比叡山で回峰行をする行者のように名誉栄達が約束されているわけではない。そんな気持ちが芽生えたときに、私は小さな見性を得た。

12. 小さな見性 3
叔母が、洗濯した私の修験装束を竿に干しているときに、パンパンと音をたてて叩き、両手で挟んだ布のしわを伸ばしていた。
毎日の洗濯はたいへんで、たいていの場合は叔母がやってくれていた。
ありがたいことと感謝はしていたが、どこかでそれを当たり前のことと思っていた。

叔母が用事で家を空けなくてはならないときには、私は自分で装束の洗濯をした。
洗濯機は古く、脱水機の代わりにローラー式絞り機がとりつけられたいた。
ゴム製のローラーの間に服を挟みこみ、取っ手をまわして水を絞る。
このとき絞りすぎると麻衣にしわができたので、力の加減が必要であった。
少し水が滴るぐらいに濡れた洗濯物を物干し竿に通し、手で叩いてしわを伸ばすと、乾いた時にアイロンをかける必要がないほどにピンとする。このことを叔母におそわった。

あるとき、私は手でパンパンと音をたてながら洗濯物のしわを伸ばしていた。
そのときに自分が無心でいることに気がついた。
見性を得るとは、禅宗において自分の心性を見極めることをいう。
邪念をいだき、日々の雑事に煩わされていることを嘆いていた気持ちが消え、日々の生活のなかに修行があることを悟ったのだ。

それから私は叔母に任せずに毎日自分で洗濯をした。

13. 深夜の儀式 1
泉で閼伽水を汲んで、高賀渓谷にむかうのが午前一時を過ぎた頃だ。
渓谷にかかる橋には、深夜にもかかわらず、私を見ようと集まった見物客が何人もいた。
岩場で着ていた作務衣を脱ぎ、ふんどし一枚の姿になる。 法螺貝を吹き、川に向かって三礼をする。護身法を切り、すり念珠をしてから、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱える。それから水に浸かる。夏の禊は行水のように心地よい。

川原でキャンプをしている若者たちが私に気づき、近寄ってくる。
彼らはふざけて奇声をあげながら川に飛び込むと、私のそばで私が結ぶ印をまねた。
私は早口で般若心経を三遍唱え、川を出る。
それから、川に入るときとおなじように、龍神大菩薩の真言を七回、八大龍王の真言を七回、不動呪を七回、光明真言を七回、唱えた。
ふたたび三礼をし、法螺貝を吹く。
それから持ってきた修験装束に着替えると、午前二時ごろになる。

13 深夜の儀式 2
禊を終えると、蓮華峯寺観音堂の階段を昇る。まず、荒神の祠に行き、閼伽水と榊を供え、三礼をし、法螺貝を吹く。それから二体ある地蔵に閼伽水と(しきみ)の花を供えて、それぞれに蝋燭二本と線香三本を立てる。三礼し、地蔵菩薩真言を二十一回唱えた。それから拍手を三回打ち、二礼二拍一礼をして、三礼、法螺貝を吹く。これを月二回、一日と十五日におこなった。
樒(しきみ)はときに高野槙になることもあった。
樒や高野槙は山に自生していた、ときどき隣山の蕪山に採りにいった。 観音堂に入り、結跏趺坐をして法螺の儀を唱える。それから山伏問答を読み上げ、法螺貝を吹き、三礼をした。護身法を切り、すり念珠をして、錫杖を振りながら、懺悔文、開経偈を唱え、三帰、三竟を三遍、十善戒、消災呪(しょうさいしゅう)を三遍、神仏をたたえる回向文を唱え、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、先祖の霊をたたえる回向文を唱えた。それから大日如来真言を七回、不動真言を七回、大師法号を七回唱える。観音行を一巻、光明真言を七回、舎利礼文を一巻、本覚讃を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍、総回向を唱え、すり念珠、三礼、法螺貝を吹き、観音堂をあとにする。

13. 深夜の儀式 3
早足で十分ほど歩いて高賀神社にいき、手水場で手と口を清め、祭礼の儀式をおこなう。法螺の儀を唱え、法螺貝を吹く。護身法を切り、すり念珠をして、三礼をする。二礼二拍一礼をし、天地清之祝詞を上げ、般若心経を一巻、本覚讃を一遍、四弘誓願文を三遍、総回向文を一回唱え、ふたたび二礼二拍一礼をし、三礼をして、法螺の儀を唱える。

高賀神社のとなりにある収蔵庫には、蓮華峯寺にあった仏像が安置してある。中に入り、法螺の儀を唱え、三礼をし、護身法を切り、すり念珠をして、懺悔文を唱え、開経偈、大日如来真言を七遍、薬師如来真言を七遍、阿?如来(あしゅくにょらい)真言を七遍、阿弥陀如来真言を七遍、観世音菩薩真言を七遍、虚空蔵菩薩真言を七遍、般若心経を一巻、光明真言を七回、本覚讃を一遍、四弘誓願文を一遍、回向文を一回唱え、三礼をして、法螺の儀を唱える。
それから高賀神社の近くにある登山道から、午前三時半ごろ登頂を始める。

14. 不思議な炎 1
沢沿いの道を登りきったところに、岩から水の染み出すところがあった。
手で水をすくい少しだけ口に含んで渇きを癒す。山登りをしている最中はゴクゴクと沢山飲むと、かえって疲れが増すので、喉を湿らす程度がちょうどいい。

山水が出る場所から先は、広葉樹の森になった。枝葉が空を覆い隠し、夜は星の光も差し込まず、昼間も暗い。地面の植生も変わり、普通の笹ではなく、熊笹があらわれるようになった。山の斜面に大きな岩があらわれ、しばらくすると不動の岩屋にたどりつく。不動の岩屋を少し登ったあたりに巨石軍が並ぶ場所があり、よく動物たちの姿をみた。カモシカの群れを見たのもその場所であり、サルの群れも良く見た。

14. 不思議な炎 2
その岩場で不思議な光景を見た。青白い炎がいくつも揺らめいて空中に浮かんでいた。 見た瞬間、人魂(ひとだま)だと思った。それはお盆の時期だった。
後で思い直して、あれは地下から燐(りん)が染み出して燃えていたのではないかと思った。

山には鉱物が沢山あった。山師だった祖父が、青白いところを目指していくと鉱脈にぶつかるという話をしたことがあった。それが見えるのは暗い時間だったので、祖父が山に入るのは決まって夜だった。昔の修験者も、あの青白い炎を目指して鉱山を探したに違いない。

山には死者の霊がいると古くから信じられてきた。
青白い炎を人魂だと思ったのは、お盆の時期だったせいだけでない。以前、同じ場所で、不思議なものと遭遇した経験があった。

14. 不思議な炎 3
山には死者の霊がいると古くから信じられてきた。
青白い炎を人魂だと思ったのは、お盆の時期だったせいではない。
以前同じ場所で、不思議なものと遭遇した経験があった。

それは二年目の冬、一月八日のことだった。
午前四時ごろ、岩屋を越え足元だけを見ながら一心に登っていると、ふと人とすれ違う気配を感じた。驚いて振り向くと二メートルほど先に人影が見え、むこうも振り向いて私のことをみた。
その姿は青白かった。長い髪をしていたので女性とわかった。
目や鼻や口は輪郭がはっきりせず、上半身はぼんやりとしていて、下半身は闇に隠れて見えなかった。見つめていたのは二秒ほどであったろうか。
「見てしまった」と思い、すぐに目をそらした。全身から鳥肌がたった。
それに囚われてしまうと山を登れなくなるので、すぐに気持ちを入れ替え一心に山を登った。日付を正確に覚えているのは、その日から雪が降り出し、何日も続いたからだ。

幽霊らしきものを見たことは、もう一度あった。それは三年目の秋口のことで、場所も同じ岩屋を少し登ったところだった。その時もはっきりとすれ違う気配を感じた。
おそるおそる振り返ると五メートルほど先に、男三人の足だけが見えた。
それが人間ではないことはすぐにわかった。全く足音が聞こえなかったからだ。
ニッカポッカを穿き、編み上げ靴を履いていたので、軍人達のようにも見えた。
上半身の見えない男達は、すぐに暗闇の中に消えた。

不思議な出来事はこれだけではない。
この岩屋に籠もって声明(しょうみょう)を唱えていると、蝋燭の火が高く燃え上がり火柱になった。火柱の高さは一メートルにも思えた。
この現象は何度か起きた。それは毎年お盆の時のことだった。

15. 雪山の遭難 1
山に雪が降った。
私が起きるのは深夜の一時過ぎだが、叔父のしげさんはいつも私より早く起きて竈に火を入れていた。木作の家ではまだ薪を使って火を起していた。
私が目を覚ますと、いつも熱いお茶を入れてくれた。時々私のかわりに塩おにぎりを握ってくれたが、しげさんのむすぶおにぎりはまんまるだった。

山道では木のスコップで積もった雪を掻き分けながら進んだ。
山から降り、食事の時間になるとしげさんが味噌汁をつくた。
叔母は知的障害のある叔父になにか役割を与えようとして、味噌汁を作るのはいつもまかせていた。冷えた体に熱い味噌汁がしみた。しげさんは「ぼう、旨いか」と聞き、私が「美味しい」と答えると、何杯でもおかわりを持ってきた。

ある日、目を覚ますと外は吹雪だった。
お茶を持ってきたしげさんが、心配そうな顔をして「行くんか?」と聞いた。
私は黙ってうなずいて、かんじきを履いて出かけた。木々に囲まれた山の中は風もなく暖かだった。
登山道の石段は雪が積もっていたが、すっかり記憶した石に足をかけて峠まで登った。峠から山頂までの尾根では、昨日スコップで作った道も、すでに埋もれていた。
踏みしめると脚がずぼりと雪に埋まった。頂上では風が強く、読経をする私の顔に雪があたった。雲のせいでご来光を仰ぐこともかなわず、読経を終えると、早く山を降りようと思いながら、私は尾根道を下った。
尾根道が急な坂になっているところを、私は飛び跳ねるように降りていった。
その時道を踏み外し、山の斜面を二十メートルほど転げ落ちた。

15. 雪山の遭難 2
私の体は腰まで雪に埋もれた。動こうとしたが、身じろきができなかった。
手で目の前の雪を掻き分けた。掻き分けた雪を手で押さえつけて固め、その上に雪の中から引き抜いた足を乗せて、さらに踏み固めた。
前に進もうとすると、また腰まで雪に埋まった。再び手で雪を掻き分けて固めて段をを作った。その段に体を乗せ、前に進んだ。

断崖というほどの急な斜面ではなかった。周りには木々が立ち並んでいた。
ところが体は前に進まなかった。手は赤くなり、痛んだ。
雪を掻いては、手を脇の下に挟んで暖めることを繰り返した。
次第に指の感覚もなくなった。

一メートルほど進む頃には、疲労困憊していた。汗をかくとかえって体が冷えた。
体を動かさないように動かしながら、少しずつ登った。
二メートル進むのに二時間ほどかかったのではなかろうか。 時計をつけているわけではなかったが、雲の上で太陽が高く昇っているのが分かった。
山で死ぬとはこのようなことかと思った。

私は映画『八甲田山』を思い出した。あの映画を見たのは正眼短期大学の一年生の夏休みだった。正眼寺が毎年行う夏期講座に学生が手伝いに駆り出された。
二泊三日の講座を終えてから、みんなで柳ヶ瀬にくりだした。
岐阜の花火大会があって見た。そのあと二十人ほどの仲間と深夜上映の映画館に入った。

日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に吹雪に遭遇し、二百十名の隊員のうち百九十九名が死亡した実際の遭難事故を題材にしたこの映画は、高倉健をはじめとしたオールスターキャストで、公開当時に大きく話題になった。
映画を見ながら、なぜこの程度の雪で遭難するのだろうと不思議に思った。
映画を観た後、みんなで朝まで飲んで騒いだ楽しい思い出があった。

15. 雪山の遭難 3
祖父は雪山で遭難したら「動かずに雪洞を掘れ」と教えてくれた。
いわゆるカマクラのことである。山師は雪山で大木の幹に雪を積み上げ雪洞を作るのだが、そのとき枝に縄をくくりつけ上から雪洞の中に下ろす。
その縄が作った穴は中で火をおこしたときの空気穴だった。 私は道を作ることをあきらめ、近くの木の下に雪を積み上げた。雪洞を作り上げるのに、一時間ほどかかったであろうか。腰に巻いていた貝ノ緒を枝にかけて、雪洞に吊るした。
しかし火をおこすことはできなかった。私は着ていたものを脱いで裸になった。
それから横になり、脱いだ服を体にかけた。服は着ていて肌に密着させるより、蒲団のように上にかけて中に空気を入れたほうが暖かかった。それも祖父から教わった知恵であった。

雪洞の中で凍えながら、私は思った。 私はこの修行に驕りはなかったろうか。
一人で出来ると思ったのは思い上がりではなかろうか。
比叡山の回峰行を冬場に行わないのは、このようなことがあることを知っていたからであろう。一人で行わないのもそうであろう。
わたしがもしここで死んで迷惑をかける人たちのことを思った。
私が修行をしようと思ったことは、私のエゴではあるまいか。
自己満足のために他人に迷惑をかけてはいないだろうか。
私は山を侮ってはいなかったであろうか。

三年も毎日歩いた山で遭難するはずがないと思っていた。しかし、その驕りを、山の神はお許しにならなかったのであろう。それは三月のことで、もうすぐ千日を終えるという時期のことだった。

どれほどの時間が過ぎたであろうか。遠くから「おーい、おーい」と呼ぶ声が聞こえた。雪洞から出て、私は大声をあげて彼らを呼んだ。しげさんの姿が見えた。
他に畳屋の源さんら気作の村人が三人いた。
彼らは私を見つけると体にロープを巻きつけ、スコップで雪を掻き分けながら道を作り、斜面を降りてきた。助け上げられたときには、すっかりと太陽が落ち、あたりが暗くなっていた。

16. めぐる季節 1
春が巡ってきて、私の心は蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように変化していた。
修行を始める前に持っていた世間にたいする恨みや怒りといった感情が消え、私を苦しめた孤独も気にならなくなっていた。
以前は人恋しさのために、訪ねてきた客になんどもお茶を勧め、帰るのを引き止めていたが、そのようなこともなくなた。

縁側で客が話しをしているのを私は庭の掃除をしながら聞くともなしに聞いていた。
庭の掃除をしながら、私は仏陀の弟子であったチューラパンタカのことを思い出していた。

彼は愚鈍で人々の笑いものであったという。
兄のマハーパンタカは物覚えの悪い弟のチューラパンタカのことを叱り、祇園精舎のそとへ追い出してしまった。
チューラパンタカは門の前で立ちすくんで泣いていた。
そこに通りかかった仏陀が声をかけた。
「精舎に戻るがよい。 お前は自分が愚かだと嘆いているが、真に愚かなものは、自分が愚かであることを知らぬのだ」
そして、彼に布と箒を与え、「塵をはらえ、垢を除け」という言葉をくり返し唱えながら、精舎を掃き清め、精舎に集まる人々の足を拭うようにいわれた。

チューラパンダカは、その言葉を一心に唱え、毎日掃除を続けた。
そしてあるとき「塵をはらえ、垢を除け」とは、自分の心の塵垢であることに気がついた。
いつも自分の愚かさを嘆き悲しんでいた私だったが、「馬鹿の一つ覚え」のごとくに仏陀の言葉を唱え続けて悟りを得たチューラパンタカのように、私も自分の道を歩き続けるほかはなかった。

仏陀の言葉に「寒さと暑さと、飢えと渇えと、太陽の熱と、虻と蛇と、-これら全てのものに打ち勝って、犀の角のようにただ独り歩め」とあった。

私は淡々と山を歩き続けた。

16. めぐる季節 2
山の中腹に猪がいた。猪は私を見ると体をひるがえし、尻をむけた。
次の日も同じ場所に猪はいた。またくるっと後ろをむいて、ぶるぶると尻を振るわせた。最初その行為が何を意味するかわからなかった。くる日もくる日も猪は私を見ると尻を見せた。

かつて私を追いかけてきた猪であろうか。また追いかけて気やしないかと思うと怖かった。その猪がウリ坊を連れていたので、メスだとわかったときに、もしかしたらあの猪は私に交尾を迫っているのかもしれないと思いついた。そう思うと私は森の一部として受け入れられたと思えてうれしかった。

木々が芽吹きはじめた。幹を抱いて耳を当てると、木が根っこから水を吸い上げる音が聞こえてくる。草や木や石ころにも神や仏があるという。丸三年かけて千日の山歩きをした。そして、自分が草や木や石ころと同じということに気がついた。

千日を歩き終えたとき、やりとげたという感慨は浮かんでこなかった。
ただ自分が自然の中にいるという思いだけがあり、それが至極当然のことに思えた。

17. 四十九日の岩屋籠り 1
千日を歩き終えた私は、そのあと四十九日の間、不動の岩屋に籠もった。
四十九は仏教で一番大事にされる数字であり、人は四十九日で生まれ変わるといわれている。その四十九の岩屋籠りを千日回峰行の満行の証としたかった。

毎朝三時ごろ起きた。お椀に一杯の水を汲み、それで顔を洗い、指に塩をつけて歯を磨いた。臨済宗では最低限度の水で洗面することを教えた。雲水だった頃は、柄杓(ひしゃく)一杯の水で洗面をしたものだった。そのことを節水といった。

禊は近くの沢でおこなった。 そこで毎日新しいふんどしを締め、新しい肌襦袢を身につけ、修験装束に着替えた。岩屋の中で毎日、不動護摩を焚いた。そのために、本尊の不動明王の仏像を岩屋に持ち込んでいた。護摩壇(ごまだん)は、村の人に持ち運びの出来るものを作ってもらった。一時間ほどで護摩を終え、夜明けまで座禅を組んだ。それから外に出て粥を作った。

朝食は一杯の粥と梅干、塩昆布、胡麻である。それからまた岩屋に戻り、ひたすら座禅を組んだ。 岩屋の中で座禅をしていると、川のせせらぎが常に聞こえてきた。

17.四十九日の岩屋籠り 2
昼頃になると読経をした。毎日唱えたお経は、般若心経を二十一巻、大悲呪を三巻、観音経を一巻、阿弥陀経を一巻である。それから光明真言を百八回唱え、次に不動呪を百八回を十回繰り返した。 そのあとはひたすら座禅に打ち込んだ。夜になると北斗護摩を焚いた。

昼食はとらなかった。夕食はうどん、そば、冷麦、インスタントラーメンなどの麺類に、茶碗一杯のご飯だった。米が炊けるように飯盒(はんごう)も用意していた。野菜は叔母が作ってくれた煮つけがあった。岩屋のそばに小さなテントを張って荷物の置き場とした。

沢の近くにスコップを持っていき、穴を掘って用便をした。紙は使わずに泥団子をこね、それで尻を拭った。そのやり方は『正法眼蔵随門記』に書かれていたものに則っていた。

季節は五月の新緑の頃となった。
山に登山者が訪れるようになり、岩屋のなかに私の姿を見つけると静かに手を合わせて通りすぎた。時にお賽銭が置かれていることもあった。道元の教える只管打座(しかんだざ)とは、座っているその姿が仏であるというものである。身体は仏であった。 私は仏に仕える行者は身綺麗にするべきと思っていた。禊は、朝、昼、晩の三回行った。毎日、ふんどしと肌襦袢を変えた。

七日ごとに山を降りて、洗濯物を持ち帰った。洗濯は叔母がしてくれていた。叔母は野菜の煮つけをタッパーに入れて用意してくれていた。私は一週間分の食料を持って、ふたたび山に戻った。七日ごとを七回くり返した。
最後の七日は断食だった。その時は護摩も焚かず、ひたすら座り、眠るときも座ったままだった。山籠りを続けているうちに感覚が鋭敏になり、風が運ぶ匂いや音がわかるようになってきた。朝、家々で用意する朝餉(あさげ)の匂いを嗅ぎ、里で子供たちが学校に向かう声が聞こえた。
そのようにして私は修行を終えた。

18. 宿命 1
千日回峰行を終えた私は、引き続き「六社巡り」をする。
これには洞戸村の武藤村長も協力してくれて、村をあげて高賀修験復興の機運が高まった。また天台宗の行者が岩場から琵琶湖に飛び込む荒行にならって、私は「入水往生(じゅすいおうじょう)」という行を始めた。これは、三千淵で亡くなった三千人の僧侶の慰霊と、また水の事故で亡くなった方々の供養の意味を込めて、橋の上から投身をした。これは毎年、夏に行い、今も続けている。

これらのことをおこなったが、私が望んだ蓮華峯寺の復興はならなかった。
その大きな理由は私の支援者であった船戸行雄氏が亡くなってしまったことによる。船戸氏は蓮華峯寺再建のための青写真を描いていた。しかし、私の望んだ泉の湧く場所ではなく、自分の所有する土地でのことだった。私が閼伽水(あかすい)を汲んだ泉は、船戸氏が作った林道の土砂によって埋もれてしまった。船戸氏が作った林道は山を切り裂いて、動物たちの棲む場所を奪った。山にいた猪やサルたちは、しばしば里にあらわれ作物を荒らした。

18. 宿命 2
山の水が名水であると聞き及んだ船戸氏は国の林業構造改革事業の一環として、板取川の近くで天然水を汲み上げ、ペットボトルに入れて「高賀の森水」として売り出した。
その水は、シドニーオリンピックにおけるマラソン金メダリストの高橋尚子選手が愛飲したことで、話題になった。その後、高賀神社の手前に井戸を掘り、百円の初穂料を取ることで水を汲ませた。
「神水庵」と名付けられたその場所には、毎年二十万人が訪れるという。その場所は泉があった場所から数百メートル離れたところだった。

船戸氏が村全体の利益を考えていたことは間違いない。しかし、なにかが山の怒りにふれたのか、その後、車を運転中に山道のカーブでハンドルを切りそこない他界してしまった。
洞戸村は市町村合併によって、関市に組み込まれた。 村がなくなることによって武藤村長も引退を余儀なくされ、高賀修験復興の機運も萎んでいった。
そんな折に、私に大阪の寺で住職にならないかという話が持ち込まれ、受けることにした。

19. 宿縁
曹洞宗の発心(ほっしん)僧堂で修行をしているさなかに、父方の叔父から電話があり、父が死んでいたことを知らされた。その時私は、葬儀には立ち会えなかった。
死因を聞いたが、叔父は教えてくれなかった。私は、警察に行って自分で調べた。
実際に死んだのは知らされたよりも何年も前のことだった。買い物袋を両手に持っていたところを背後からナイフで刺されたそうだ。
私は殺した男に合わせるように警察に頼んだが、殺した男は金で雇われたチンピラで、調べてみても事件の背後はわからないとのことだった。
それを聞かされたときの私の感情は、怒りや悲しみよりも諦めに近かった。

数年前、年老いた母が、実の父親は彼ではないことをポロッとこぼした。
それを聞いたとき、驚きはしたが、意外ではなかった。むしろ、それが事実であれば、ホッと安心できることだった。母からは、その時同時に実の父の名前を聞かされた。それを聞いたとき、私は全ての謎が解けた気がした。その人がなぜ私にそこまで親切にしてくれるか理解できたし、何より自分が、日に日にその人に似ていくことが分かったからだ。

私が生まれたとき、一つの嘘があった。その嘘は私の人生を苦しくした。
しかし、今はっきりわかるのは、それが私の背負った宿業であったということだ。
人はそれぞれ自分の宿縁を持っている。
そもそも、誕生日の「誕」という字には、「うそ・いつわり」という意味がある。
誕生日とは、私という嘘が生まれた日なのだ。

私は自分の宿縁を受け入れ、やっと本当の自分と向き合うことが出来た。