釈正輪老師思い出

思い出 1.正眼短期大学 1
私は木立の中にある長い石段の前に佇んで、これからの新しい生活に不安な思いをめぐらせていた。私は、鎌、斧、地下足袋の入った鞄を肩に掛けなおし、重い足取りで一歩一歩、石段を登った。
山門をくぐると本堂の前にしだれ桜の木があったが、花はすでに散った後だった。
ここは岐阜県美濃加茂市の伊深(いぶか)にある正眼時(しょうげんじ)という臨済宗妙心寺派のお寺で、ここの境内にある正眼短期大学というのが私のこれからの生活の場だった。

その大学は「伊深の少年院」ともよばれ、地元のの不良少年たちに怖れられていた。少年院に行くはずだった私がそれを免れたのは、家庭裁判所の判事が私の家庭環境では少年院に送っても更生は難しかろうと考えたからだ。
代わりに私は裁判官の遠戚である住職がいる禅寺に預けられることとなった。
その寺から二十五キロの距離、昔で言うならば六里の距離を二時間半かけて高校に通い、皆より遅れて五月に卒業した。

1.正眼短期大学 2
預けられた寺には一歳年上の栗山(仮名)という小僧さんがいて、正眼短期大学の一回生だった。彼が冬休みで寺に帰っていた時に、私をバイクの後ろに乗せて彼の通う大学に遊びに連れて行ってくれたことがある。
学校の長い渡り廊下を二人で歩いている時に、向こうから小柄で凛としたお爺さんのお坊さんがやってくるのに出くわした。栗山がすぐに挨拶をするとそのお坊さんも合掌して挨拶を返した。
そして私のことを見て「新入生かね?」と訊ねた。
いきなり声をかけられ戸惑っている私の代わりに、栗山が私の素性を説明した。
聞き終わると、そのお坊さんは私のほうを向き、この大学に来るように薦め、そして「待っているからね」と付け加えた。それが当時、正眼寺の住職で大学の理事長でもあった梶浦逸外老師との出会いだった。

卒業を控えていたが、私には行き場がなかった。
剣道の特待生として推薦を受けていた大学への進学も、また初級公務員試験合格もふいになっていた。そんな時に、この大学の存在を知って、私は学校案内のパンフレットを取り寄せた。
全寮制のとても小さな大学だった。 短大だから一回生と二回生しかなく、それぞれの定員が三十名だった。モノクロのパンフレットは当時のものとしてはみすぼらしく、そこに写っていた学生はみな剃髪をした丸坊主、服装は袴姿。
まるで明治か大正時代の格好だった。持参品に鎌、斧、地下足袋と書かれていた。
作務に必要とのことだった。
作務とは禅寺で禅僧がおこなう農作業や掃除などの労働をいう。
禅宗には「一日作務なさざれば一日くらわず」との言がある。
もともと「般若林(はんにゃりん)」とよばれる僧侶のための修行道場があった場所を、一般学生を受け入れるよう学校法人化した所だったので、そこでの生活は僧堂そのものだった。

2. 仲間たち 1
二度目に栗山に大学へ連れて行かれたときにも、また逸外老師に会った。
その時、老師は私に「あんたはどこの出身かね?」と訊ねた。
私は「岐阜です」と答えた。
すると老師は、にこっと笑い「あんた、お坊さんになりんさい」と言った。

この大学への進学を決めたが、私の家にはお金がなかった。
けっして高い入学金ではなかったが、その時私の母がなんとか集めてくれたお金は入学金の半分に満たなかった。
そのことを大学に伝えると、事務局を通して「お金のことは後から考えればええ」という老師の言葉が返ってきた。
入学した後も私は授業料を払うことができなかったが、特に催促されることもなかった。一緒に入学した仲間たちにも学費を納めていない者たちが多くいた。
そこは私と同じように事情を抱えた人間が集まる不思議な場所であった。

2. 仲間たち 2
入学したその日に私はバリカンで髪を切られ丸坊主にされ、五人部屋の寮に入れられた。皆より一ヶ月遅れて入学した私は、すぐに周囲に溶け込めるかどうか心配だった。部屋は先輩である二回生も同室で、新入生に睨みをきかせていた。衣を着たその先輩の名は岡野(仮名)といい、年齢が三十歳に近く、背も高く、皆に怖がられていた。
衣を着ているのは一部生の証で、袴姿の二部生、三部生と区別されていた。
一部生というのは将来僧侶になるために入学した学生をいい、寺の息子が多かった。岡野もどこかの寺からこの大学に送られてきたのだが、ガラが非常に悪かった。
いつも衣の袖を大きく振りながら歩き、むやみに人を殴った。
寺の出でもあるにもかかわらず元やくざという噂があり、実際、小指がなかった。

同期の一部生には寺の息子もいた。
正田(仮名)という名の大きな寺院の息子とは、同室だった。寺が跡取り息子をこの大学に入れたがるのには理由があった。禅宗では、四年制大学卒業後、三年間の僧堂での研修が教師資格(住職の資格のこと)の条件だった。
しかし、この大学を二年終えると二年間の僧堂での研修と同等に扱われたため、卒業後、あと一年修行をすれば資格を得られた。つまり住職への最短コースだった。
しかも正眼寺は臨済宗の中でも権威があったので、ここを出ればエリートとして扱われた。だから寺の住職たちはこぞって息子達をこの大学に入れたがったのだが、当の息子達は来るのを嫌がった。
というのは天下の鬼僧林(おにそうりん)とよばれるほど、修行が厳しいことで有名だったからだ。

2.仲間たち 3
二部生とよばれる学生は企業からの派遣だった。この大学が設立された時、理事長である逸外老師の「人間を作りたい」という理念に共鳴した企業が多額の寄進をした。そして将来の幹部候補生たちを送り込んだ。

当時の逸外老師は有名人で、各界からの信頼が厚かった。特に話題になったのは、巨人軍の川上哲治氏が逸外老師に師事していたことだ。私は在学中に正眼寺で何度も川上監督の姿を見かけた。長島茂雄氏や王貞治氏と言葉を交わしたことさえある。巨人軍が破竹のV9を達成した時代のことだ。

同期だった寺田(仮名)は大日本土木から派遣されており、東大出の二十五歳だった。何事においてもリーダーシップを発揮していた彼は会社に戻ってからも出世コースに乗り、現在、幹部として活躍していると聞く。

2.仲間たち 4
三部とよばれるのは私のような一般学生だった。一般学生といっても曲者ぞろいだった。寮で同室だった吉本(仮名)は元自衛官だった。 当時二十代半ばだった彼は背が高く筋骨隆々としていて、無口だった。この吉本君には、かの先輩の岡野(仮名)も一目置いていた。なぜなら一度殴りかかろうとして、逆に投げ返されてしまったことがあるからだ。聞けば極真空手の有段者だという。自衛隊でレンジャー部隊の教官をしていた彼がこの大学にやってきた所以はこうだ。新宿の歌舞伎町でやくざ五人を相手に喧嘩をし、相手を半殺しの目にあわせたせいで自衛隊を懲戒免職処分となる。
そして行き場のないまま彷徨しているときに、なにかの縁で逸外老師に出会い、そのままここに連れてこられたのだという。

一般学生の中には知的障害のあるものもいた。 九州の綱元の息子だという彼がこの大学に来た理由はわからなかったが、逸外老師は来るものを誰も拒まず、とくに我々のような風変わりの者を殊の外かわいがった。

3.寮の一日 1
寮の朝はとても早い。 直日(じきじつ)とよばれる当番が、振鈴(しんれい)を鳴らしながら叫ぶ「開静(かいじょう)」の声で起される。
すばやく寝具を片付け、洗面をすませ外に出ると、まだ真っ暗だ。
体育館(禅堂)に学生全員が集められ、読経と座禅で一日が始められるのが午前四時半。約四十分の読経は一週間で経本一冊の暗記を求められる。
その後、およそ一時間の座禅がある。
壁を背に二列に向かい合って座り、真ん中を寮監と二回生の直日が警策(けいさく)を持って監督する。警策とは座禅中に眠気を催した者や心を乱した者を打つ痛棒のことで、これを行ずる者には力の加減など繊細な技術が必要なため、本来なら修行の進んだ者しか行うことができない。
寮監は資格を得た僧侶であったため上手に警策を打てたが、二回生は力任せに打ちつけてきたので、打たれるほうはたまらなかった。

3. 寮の一日 2
日の出の時刻には持久走が待っている。毎日四キロを雨天でも走る。
ときおり持久走の代わりに作務があった。庭の草刈などである。
それが終わって朝食だ。 当番制で学生が作る朝食は粥(しゃく)とよばれお粥よりゆるい重湯(おもゆ)で米粒が数えられた。これに漬物がついて一汁一菜(いちじゅういっさい)だ。

臨済宗では食事も修行の一環なので、楽ではなかった。一切の音を立ててはならないのが戒だった。食事中に話すことはもちろん、粥をすする音、漬物をかむ音、箸を置く音も許されない。
食堂(じきどう)に二回生と一回生が交互に座り、沢庵を噛む音がすこしでもしたら、横にいる二回生の拳骨が飛んできた。私は沢庵漬を食べるのが怖くて、飲み込むようにして食べるようになった。

3. 寮の一日 3
朝食の後、掃除があり、それを済ませると八時半。大学の授業は九時から始まり、午後三時までカリキュラムがびっしり詰まっていた。一般教養と専修科目の他、茶道、華道、書道があり、剣道、柔道、少林寺拳法などの武術も必修とされた。他校のようにスポーツなどの部活はなく、講義後の活動は武術だけだった。
厳しい環境であったが、私の性に合った。私は初めて真剣に、がむしゃらに勉強をした。
自分にそんな一面があったことが、自分でも意外だった。先輩達に殴られるのは辛かったが、ここでは私は疎外感を感じずに済んだ。殴られるのは後輩達はみな同じだった。先輩達はそれを「慈悲の拳骨(じひのげんこつ)」とよんだ。臨済宗は、元来、武家の宗教だったせいもあり荒々しさを売りにしていた。特に正眼時は「鬼の正眼」とよばれていて、この大学もその気風を引き継いでいた。

寮に戻ってもテレビがあるわけでもなく、楽しみといえば酒だけだった。日本酒の一升瓶を抱えて毎日部屋で飲んだ。飲んで話すことと言ったら、禅とは何か、といった真面目な話である。
私はここで、人生とはなにか、自分の将来はどうあるべきか、といったことを考える時間を得た。生まれて初めて仲間を持てたと思った。元自衛官の吉本(仮名)だけはそんな仲間に加わらず、毎日外に一人で飲みに出かけていた。消灯は九時だったが、みな蝋燭の灯りで飲み続けた。
寮の各部屋には、どこも同じように蝋燭の灯りが揺れていた。

4. 脱走者
私には素晴らしい環境であったが、耐えられない者たちもいた。
それは決まって寺の息子達だった。 退学も落第も許さない校風だったので、辞めるには逃げ出すほかない。
同期生の何人かは逃げ出した。同室だった正田(仮名)もそうだった。大きな寺院の跡取りであることを鼻にかける話し方をする正田はみんなにいじめられた。 それに耐えられなくなり、ある日学校からいなくなった。来る者を拒まない学校だったが、去るものは追った。
いなくなったことに気が付いた我々が追いかけたら、正田は山の中の一本道をとぼとぼと歩いていた。我々に引きずり戻されると、先輩達にボコボコに殴られた。
正田は懲りずにまた逃げた。我々は先回りして駅で捕まえた。
逃げ出す先は実家の寺とわかっていたから、その寺の門前で待ち構えて捕まえたこともある。

正田は都合四回脱走を試みた。
一本道ではすぐ見つかると知った彼は、四回目に山の中に逃げた。
入学して四ヶ月後のことである。正田の行方はそれっきりわからない。

5. 拳骨(げんこつ)
先輩達に殴られることは日常で慣れっこになったが、元ヤクザといわれる岡野は少し違った。理由など特になくても殴ってきた。 目が合うと、「なんだその目は?」と言われる。「何でもありません」と答えると、「ふざけるな」といわれて殴られた。
誰もが怖がって、この岡野と目を合わせようとしなかった。私はこの岡野に目をつけられた。意味もなく呼び出されると、生意気だという理由で殴られた。私はこの岡野だけは許せなかった。いつか仕返しをしてやろうと思っていた。

いつも殴られている一回生が、年に一度、憂さ晴らしをする儀式があった。
「どやし」とよばれるその儀式は、学校が黙認する無礼講だった。その日だけは一回生は二回生を殴ってよい決まりになっていた。 この機会に私は岡野をやっつけよう心に決めていた。正月休みで実家に帰った折に模造刀をもちだした。

節分の日の夜、飲み会を開いた。その時に二回生をとことん酔っぱわせる。その後、二回生を真っ暗な体育館に引き入れる。そこには一回生が待ち構えていて、一斉に殴りかかる。二回生も抵抗するがなにしろ酔っ払っていて、一回生は素面(しらふ)だ。私は岡野に狙いを定め摸像刀で殴りつけた。その晩は大乱闘になった。翌朝は血だらけの体育館にみんなで倒れていた。岡野は大怪我をして病院に運ばれた。
そしてそのことは学校で問題となった。いくら学校が黙認してきた伝統行事とはいえ、怪我人をだすのは初めてのことである。この事件をきっかけに私がヤクザの息子であるという素性が皆に知れた。私はここでも怖れられる存在となった。

6. 仏道を志す
私が二回生になったときに新入生として入ってきた後輩が、
「柳ヶ瀬でヤクザ大勢を相手に喧嘩して木刀でボコボコにやっつけたあの武藤さんですか?」と訊いてきた。
「ヤクザと喧嘩した奴などたくさんおるやろ」
「いいや武藤さんのことは伝説になっています。 岐阜中で有名ですよ。」
私の過去は校内に知れ渡っていたが、この大学に入学してからの私は真面目な学生だった。授業も真面目に受け、成績も優秀だった。
二回生になったからといって後輩にむやみに暴力を振るうこともしなかった。

この頃に逸外老師が妙心寺の管長になられ正眼寺を離れられた。それに伴い学長が変わり、校風が変わった。私は七期生だったが、荒々しい気風を体験した最後の世代となた。それ以降はごく普通の大学と変わらなくなってしまった。
新しい学長は立派な方だったが、私とはそりが合わなかった。逸外老師がいらした頃には許されていたことも、新しい学長の下ではゆるされなかった。私にはそれが不満だった。

十九歳になった私は自分の将来を仏道と見定めるようになっていた。当時の正眼寺短期大学では一般学生は卒業すればそれなりの企業が受け入れてくれたのだが、私は尊敬する逸外老師の下で修行をしたいという希望を持っていた。
しかし、妙心寺管長になられた逸外老師は、もはや雲の上の存在である。ある時、大学を訪れられた逸外老師にこの思いをぶつけたところ、老師の実弟である梶浦宗覚師が住職を勤める真福禅寺の小僧になることを許された。

7. 大森曹玄(おおもりそうげん)老師 1
私の剣術における師である大森曹玄(おおもりそうげん)老師に出会ったのは十九歳のことだ。大学の授業にも剣道があった。しかし顧問の教師は僧侶であり剣道の有段者としては私のほうが上であった。私は部長という立場を与えられ、あまり授業にでない教師の代わりに同じ学生達の指導をしていた。その時の私は、自分自身の剣を高めるために一人で鍛錬する以外になかった。私がその頃愛読していた書物が、大森曹玄老師の『剣と禅』である。直心影流(じきしんかげりゅう)剣術の形を今に伝える大森曹玄老師は、剣をする者の憧れであった。大学で国文学を教えていた成瀬教授がたまたま大森曹玄老師と交流があり、私が老師に傾倒していることを知って、一度相見させてもらえることになった。

7.大森曹玄老師 2
それは夏休みのことだった。師匠寺の住職である宗覚師の親族の法要が東京であり、小僧である私も手伝いで連れて行かれることになった。
その際に僧侶でもあった成瀬教授が、宗覚師の脇導師として同行した。これを機会に東京にいる大森老師をお訪ねしようと成瀬教授が先方に手紙を書いておいてくれた。私の初めての上京である。

法要の手伝いを終えた私は、成瀬教授と兄弟子に伴われて中野の高歩院を訪れた。午後二時の約束だったと記憶している。まず奥方の書院に通された。
老師は外出中で、そこで私たちは二十分ほど待たされた。そして老師が現れたとき、約束の時間に遅れたことを老師が私たちに丁寧に詫びたことが印象的だった。
私たちのような若造に対して、まるで偉ぶるところのない人柄に、感銘を受けたのだ。

書院では老師と成瀬教授が禅の話などをしているのを、私は脇で静かに聞いていた。話が一段落したところで老師は私の方を向き、私が持っていた防具入を見て「剣道の稽古をされてきたのですか」と尋ねられた。そのときその防具入に入っていたのは法要のための仏具だったので、私はそう答えた。

7.大森曹玄老師 3
私たちは禅堂に案内され、そこで老師に「法定(ほうじょう)」の形を見せていただいた。この形は直心影流剣術の基本で、八相発破、一刀両断、長短一味の四本があり、それぞれが、春、夏、秋、冬の大自然の運行を表している。
小柄な老師が太く独特の形をした木刀を持って見せてくれた演武形は無駄な動きひとつなく、およそ二十分のあいだ私は老師の動きを食い入るように見つめていた。
演武を終えた老師は、私に「丹田を鍛えなさい」と言った。

次に直径十センチほどの大きな筆を取り、広げた新聞紙に書をしたためて見せてくれた。それから私たちにも筆を取らせ「書いてみなさい」と言った。
その時なんという文字を書いたかは覚えていないが、老師に「あんまり上手くないねぇ」と笑われたことを覚えている。

私は最後に老師に「剣を学ばせてください」とお願いした。
それから長年に渡って、折を見ては中野の高歩院に通って剣を学ぶことになる。
それはこの初めての出会いから、老師が九十歳で遷化(せんげ)するまでの十数年に及んだ。私の荒れた邪剣を正してくださったのは大森曹玄老師だ。大森老師からは謙虚であることの大切さも学んだ。

7.大森曹玄老師 4
この日、その場所にいたのは二、三時間ほどであったろうか。高歩院の門を出たとき太陽は西に傾いていて、私たちの影を道に長く伸ばしていた。
門から出て百メートルほどの路地を老師とお弟子さんたちは私たちと共に一緒に歩いて、そして線路沿いの駅に向かう道にぶつかる角で、お辞儀をして私たちを見送った。私は高名な先生に会えた喜びに、駅への道のりを浮かれた気分で歩いた。
しばらく歩いて、ふと後ろを振り向くと老師とお弟子さんたちはまだ頭をさげ、合掌して私たちを見送っていた。
そして三百メートルほど歩いて、まっすぐな道が途切れて次の角を曲がるときに再び後ろを向くと、老師はまだそこで私たちを見送っていた。
その遠くに小さくなって見えた大森曹玄老師の姿を私はいつまでも忘れることはない。

8. 茶道
剣道とともに私がこの短大時代に熱中したことに、茶道がある。
茶道は大学の必修科目であった。そもそも茶は、臨済宗の開祖である栄西が中国から日本にもたらしたもので、茶道は臨済禅と密接なかかわりがあった。
授業で道前宗雪尼という年配の尼僧の方が茶道を教えたが、私は日曜日にもその尼僧寺に通って習うほどの熱の入れようだった。私は茶道部の部長も務めた。
正眼寺では毎年正月に正眼茶会を主宰していたのだが、これは岐阜県下でも一番大きな茶会であり、正眼寺の名物行事であった。
この茶会の実務を取り仕切るのが正眼短期大学の茶道部であったので、その責任は大きかった。この茶道部は、この地方にある他の大学の茶道部にも有名だった。
他の大学の文化祭で茶会に招かれた際に、衣を着て現れ、黙々と茶を立て、凛として立ち去る姿は、他大学のお遊びのようなサークルとは一線を画していて、一目置かれていた。私以外の学生たちもみな茶道に真剣に取り組んだ。

9. 真福禅寺 1
私が真福禅寺で得度式を迎えたのは十九歳の七月のことであった。得度とは僧侶になるための出家の儀式をいう。
宋覚(そうかく)師が執り行い、髪の最後の一結びは逸外老師が剃り落してくれた。
式には父と母が出席した。父は六年の刑期を終え、出所したばかりであった。
母は一人息子が坊主になることをあまり喜ばなかったが、父はなぜか宗覚師を気に入り、しばしば真福寺を訪れては宗覚師と酒を飲み交わす仲となった。しかし私はいささか肩身の狭い思いをしていた。息子が得度するときは、その実家が師匠寺にお礼をするのが一般的だが、我が家にはお金がなかった。一切の面倒は宗覚師が見ていてくれた。こんなこともあった。
長い間、刑務所に入っていた父が、私に迷惑をかけたお詫びとお祝いを兼ねて何か買ってやろうと言った。私は当時、スクーターに乗って真福禅寺の檀家回りをしていたので、車が欲しいと父にねだった。父は私に中古の車を買い与えた。いまでもよく覚えているが、マツダ・ルーチェという車種だった。父はその車を知り合いのヤクザから買ったのだが、結局、その代金を払えなかった。ヤクザは真福禅寺に取り立てに来た。宗覚師は黙ってその代金を払った。私は宗覚師に車を買ってもらったと同じだった。

9. 真福禅寺 2
私は小僧として毎月三万円の小遣いをもらい、真福禅寺から四年制の仏教大学に通っていた。三回生として編入したのだが、仏教を学問的にとらえることに疑問を感じ、あまり勉強に身が入らなかった。
それに当時は初めての恋愛に夢中になっていて、小僧としての修行もおろそかになっていた。車を得た私は、後の妻となる彼女との一泊旅行を計画していた。しかし、それは小僧の身分では許されることではなかった。私は、当時指導に通っていた町の剣道教室の合宿があるとウソをつき、彼女と旅行に出かけた。その夜、私は交通事故を起こしてしまった。警察から真福禅寺に連絡がいき、宗覚師がすぐにタクシーを飛ばして駆けつけてくれた。幸い相手の怪我は軽度のものだった。私はさんざんに叱られたが、示談金を支払ってくれたのは宗覚師である。

9. 真福禅寺 3
宗覚師は逸外老師が理事長をされていたとき、正眼短期大学の副学長をされていた。とても面倒見がよく、私たち学生を飲みに連れて行ってくれたりして、かわいがってくれた。
逸外老師が妙心寺の管長になられて正眼寺を離れられた後に、正眼寺の住職になられたのが、逸外老師の一番弟子である谷耕月(たにこうけつ)師であった。
同時に、谷師は梶浦逸外老師の後を継いで正眼短期大学の理事長になられた。
正眼寺と正眼短期大学はいわば一体であったからだ。このときに追われるように大学を去ることになるのが宗覚師である。
我々学生は当然、宗覚師が次の理事長になるものと思い込んでいた。しかし、宗覚師は逸外老師の実弟ではあったが、弟子ではなかったのだ。

10. 公案 1
宗覚師が修行されたのは臨済宗国秦寺派で、逸外老師が管長になられた妙心寺派とはちがった。本来であれば、私も師匠と同じ国秦寺で修業をすべきであった。
しかし私には逸外老師の弟子でありたいという思いがあったので、真福禅寺の小僧をしながら妙心寺派の正眼寺に直参(じきさん)していた。そこで、しばしば正眼寺住職の谷耕月師の接心(せっしん)を受けることもあった。
管長職をされていた逸外老師にお目にかかる機会は限られていたが、月に一度ほど宗覚師を訪ねていらっしゃることがあった。

ある日、真福禅寺にいらした逸外老師が私を見かけて、こう尋ねた。
「谷耕月師からは、どんな公案を授けられたかね?」
公案とは禅宗において師から弟子に出される「問い」のことをいう。
この「問い」を座禅しながら熟考し、自分なりの「答え」を見出して、師と向き合う。
生半可な答えは師に一蹴される。このやり取りが、いわゆる「禅問答」である。

10. 公案 2
私は
「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)です」と答えた。
これは、両手をバンと鳴らしたときに右手と左手のどちらが鳴ったか、を問うもので、初関(初めて授けられる公案)として、よく使われるものだ。
逸外老師は、
「私も公案を授けよう」と言い、
「趙州(じょうしゅう)和尚。因(ちなみ)に問う。狗子(くし)に還って仏性ありやまた無しや」
と問われた。
これは「趙州の無学」といわれる公案で、趙州和尚に弟子が
「犬にも仏性があるでしょうか」と訊き、
和尚が「無」と答えたという話である。
私は逸外老師に頂いた公案を持って翌日から参禅し、師匠の宗覚師に、
「犬には仏性はありません」
と答えると、宗覚師は、ガハハッ、と笑われた。
また翌日参禅し、今度は
「犬に仏性はあります」
と答えると、宗覚師は大声で笑われるばかりだった。
ひと月後に逸外老師がお見えになった。私は自分の答えを逸外老師にぶつけた。
老師は、むっと口を閉じたまま、何もお答えにならずにそのままどこかへ行ってしまわれた。

10. 公案 3
私は逸外老師に接見するために何度か妙心寺を訪れた。逸外老師は管理職で忙しかったにもかかわらず、いつも接見してくださった。
公案の答えを述べると、毎回、無言で一蹴された。
あるとき、この問いの答えは「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の本来の面目」を考えてみないとわからないと言われた。
これは「自分の両親が生まれる前は何であったか」という問いである。老師は、私が自分の生い立ちに苦しんでいることを見抜いておられたのだ。
私は、逸外老師の弟子としてこれからも生きていきたいという希望を持っていた。
しかし老師は、私に外の世界に出ていくことを勧められた。
「修行の場は娑婆(しゃば)の世界だぞ」
と老師は言われた。
「ここにいる雲水たちは寺の息子たちだ。彼らは良くも悪くも二、三年ここで修業すれば跡取りとして住職となる。しかしお前はもともと坊主の息子ではないのだ」
そう言われ、私は落胆した。
老師はさらに
「いつでも、ここにいらっしゃい。そのときは一服のお茶でも飲もうぞ」
とおっしゃった。
私は、つい初関の公案を通していただくことはなかった。しばらくして逸外老師は病に倒れ遷化(せんげ)されたからだ。

11. 結婚 1
谷耕月師は、その後も正眼寺に来ることを勧めてくれたが、そのことを宗覚師は快く思わなかった。子供がいなかった宗覚師は、私に自分の寺を継がせようという思いもあったようだ。
私は大学を四年生の秋に中退してしまった。その後の自分の進むべき道を探しあぐねていたときに、谷耕月師の薦めがあって、ある全寮制私立高校の教師兼寮監として赴くことになった。それは生前の逸外老師が私のために用意してくれた道でもあった。逸外老師は遷化される前に私に「住職にならずに、僧侶になりなさい」と言い残していた。
私自身も修業はつづけたいと思っていたものの、どこかの寺に収まってしまうことには魅力を感じていなかった。正眼寺大学で人生を変えられるほどの体験をしたと思っていた私にとって、正眼寺大学と同じように人間を作るという理想を掲げた全寮制の高校で教鞭を取ることは打って付けに思えた。
高校で教師を始めてからすぐに私は今の家内との結婚を決めた。結婚することを宗覚師に申し出たときに、師匠はへそをまげてしまって結婚式にはでないと言い出した。私は困ってしまった。

11. 結婚 2
ある日、用があって正眼寺に電話をしたとき、谷耕月師が病気で入院したという知らせを聞いた。私は彼女を連れてお見舞いに行った。すると私たちは谷耕月師が入院されてから訪れた最初の見舞客だった。
耕月師は私たちが来たことを非常に喜んでくれた。そして彼女をフィアンセであると紹介すると、喜んで仲人になることを引き受けてくれた。そのことを師匠である宗覚師に報告をしにいくと、口では祝ってくれたが、なんとも寂しい表情をされたのが忘れられない。真福禅寺とは、そのまま疎遠になってしまった。
その後、谷耕月師は、子どもが生まれたときに名付け親になるなど、なにかと私たち夫婦をかわいがってくれた。そんな経緯があったのだが、結局、耕月師は結婚式に出席していない。理由は、私の父にあった。母と一緒に挨拶にいったのだが、ヤクザ者の父は相手が誰であろうと関係なくぞんざいな口を利いた。耕月師はその時まで私の父がヤクザの組長であることを知らなかった。妙心寺派の高僧である谷耕月師が、ヤクザと同席することはやはり難しかった。

12 流転 1
教師の仕事にはやりがいを感じていた。ちょうどテレビドラマで「金八先生」が流行っていたころで、私も熱血教師をめざした。
しかし、現実はドラマのようにはいかなかった。正眼短期大学のような厳しい教育は、大人になりかかった十九、二十歳には適していたが、まだ幼い高校生には無理があった。生徒数の多いマンモス高校では、様々な問題が相次ぎ、生徒と学校の間に立った私はいつも苦しい立場に立たされた。結局、私の教師生活は一年しか続かなかった。原因の一つに父が再び逮捕されたことがある。父が刑務所に入ると、父の作った借金が保証人である母の元へかぶってきた。私は母を援助していたが、その金額はとても教師の給料で追いつくものではなかった。私は勤めていた会社に相談をした。すると理事長の息子である副理事長が、「武藤先生のお父様はその筋の方でしたか。それではうちの学校にふさわしくありませんね」といった。
その一言で私は学校を辞めた。

12 流転 2
学校を辞めて、まず私が始めたのは土方(どかた)である。解散した父の組の組員だった男が土建屋をやっていて、そこで肉体労働を三ヶ月やった。
次にもっと時給の高い解体業に移った。それも父の組のつながりであった。そのとき、大型免許を持っていなかったにもかかわらず、私は十一トントラックを運転した。その仕事は四ヶ月続いた。
次に本の訪問販売セールスの職についたが、これは自分に合わず一ヶ月で辞めた。次に私は商事会社のサラリーマンになった。時代はバブル経済に向かう途上であり、証券はとても儲かった。父の借金は三千万円ほどで、主にサラ金からのものだったが、私はサラリーマンをしながら順番に返していった。借り先のサラ金は二十数社に及んだ。その借金を数年で返し終えた。私のセールスの成績は優秀だった。小豆相場で大儲けしたこともあった。

ある日、営業で訪れたある会社で、私の顧客であった社長が自分の会社で開発した機械を見せてくれた。それは電線を覆う皮膜を自動で切断する機械だった。それまでにも同じような機械はあったのだが、大型で高価だった。その会社はゲーム機器などの製作をしていたのだが、その基盤はたくさんの配線が必要で、作業の合理化のために独自に小型の機械を独自に作った。それを見せられた私が「これは他社にも売れますよ」と言うと、私の顧客であるその社長は自分もそう思うと言い、ただ自分のところには販売網がないから、私に作って欲しいと請われた。私は販売会社を作って、そこの専務に納まった。商品はアメリカのNASAに納入されるほどにヒットし、会社は業績を順調に伸ばした。

12 流転 3
私は岐阜に家を建て、私の母と、一人暮らしをしていた父方の祖母を呼び寄せて妻と二人の子供とともに住まわせた。そのとき、私の人生は順風満帆に思えた。しかし私は家庭を省みることをしなかった。結局、私は自分の父親と似た道を辿っていたのであろう。

父の最初の仕事は、愛知県にあった東海地方で最初に出来た自動車学校の教官兼副校長だった。まだ自動車が珍しかった時代のことである。自動車学校の教官をしているということは誇らしいことだった。
その後、ある会社の創業に関わり、その会社を上場させるまでに発展させた。それから自分の運送会社を作り、トラック十数台を有するまでに至った。
当時の東海地方では一番大きな会社だったと聞いている。この会社に専務として入った父の弟が手形を乱発し、会社を倒産させてしまう。
岐阜に夜逃げで来たのは、私が小学二年生のときだ。岐阜に来てからは父は自動車の販売会社をしていたのだが、次第にヤクザとの付き合いが始まり、私が中学二年生のときには自らの組を立ち上げるに至る。いつも家にいないので、その頃の父のことを私はほとんど知らない。

12. 流転 4
幼い頃の私にとって、父は誇らしい存在だった。羽振りのよかった時代の父は、よく興行で三波春夫氏をよんだ。その三波春夫氏の膝に抱かれた記憶がある。私はお坊ちゃんとして優雅な幼少時代を過ごした。
結局、父がヤクザにならざるをえなかったように、私は僧侶になるしかなかったのだ。サラリーマンをしながら、私は天台宗で修業をして僧侶の資格を得た。
会社の経営に関わっていた頃は、長期の休みを取って山歩きをした。白山で「こうか」の声を聞いたのも、その頃のことだ。私の心は次第に、修業に専念したいという思いにとらわれていた。ある日、経営する販売会社の社長と経営の方針をめぐり対立し、私は辞任することになった。その際、自分の所有する株をすべて社長に買い取ってもらった。それから私は一年間の托鉢の旅に出た。

托鉢 1
網代笠を被り、黒染めの麻衣を着て、肩から頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手甲で覆った手に錫杖を持ち、脚半を付けた足には梱包用のビニール紐で編んだ草履を履いていた。
「ほおーっ、ほおーっ、ほおーっ」
大きな屋敷の玄関前で読経をしていると、屋敷の中からギャンギャンとドーベルマンの吠える声が聞こえてきた。
しばらくすると中から屋敷の主人が出てきて、私の顔を見るなり、
「なんだ、きったねぇ坊主が立っておって。帰れ、帰れ。」と言った。
途中で読経を止めるわけにもいかず早く終えて立ち去ろうと思っていたところで、私は水をぶっかけられた。
私は濡れた袈裟から水を滴らせながら、その屋敷から離れた。
観光地で土産物屋の店先に立っていると、店主に、「商売の邪魔だから他所に行ってくれんか」と追い払われることもたびたびだった。

托鉢 2
托鉢行とは乞食行(こつじきぎょう)ともいい、家々を巡って生活に必要な最低限のお布施をもらい、人々に功徳を積ませる修業のことをいう。慈悲の心がなければ乞食(こじき)とかわらず、実のところ、僧を装った乞食も珍しくない。私は臨済宗で得度をした僧として袈裟を着ていたが、野宿をすることも多く袈裟は汚れていた。そんな旅の中で、人々の人情に触れることも多くあった。

特に人情の厚い場所として記憶しているところに、下呂温泉がある。
定食屋の店先に立つと中に招き入れてくれ食事を振舞ってくれた。
ある大きな旅館の女将が、無料で一番良い部屋に泊めてくれたこともあった。
下呂には水明館という老舗の旅館があり、ここの主が先祖代々正眼寺の檀家で、私も雲水時代に仲間と一緒に托鉢したときに何度も投宿させてもらった。
そのように信仰の厚い土地柄であるのだろう。
また温泉街にはそれぞれに事情を抱えて流れてきた人たちが多く働いていて、余所者(よそもの)に寛容な風土があったため、下呂温泉には何度か訪れた。中山道の旅情も素晴らしかった。
旅を続けるうちに人情に溢れる場所は日本中いたるところにあることに気づかされた。

托鉢 3
岐阜近隣から始めた托鉢の行脚は、徐々に遠くに足を延ばすようになった。
歩いて気づかされたのは、金持ちの住む場所ではお布施を受け取ることができず、むしろ貧乏な人たちが住む場所でこそ、お布施を受け取ることが多いことだ。
路地を歩いていると、子どもがやってきて、私に十円玉を握らせたことがあった。
その土地に喜捨をする風習が根付いているということであろう。
心の豊かさはお金の尺度では計れないことを、托鉢行を通して学ぶことができた。
二千円から三千円のお布施が集まると、その日の食費とし、余った分は、その日に投宿した寺の賽銭箱に入れ、翌日また無一文から托鉢を続けた。

托鉢 4
ある夏の日、大阪の河内を訪れたときのことだ。
午前十時ごろ、強い日差しの中、古い長屋が並ぶ往来で「ほおーっ、ほおーっ」と声を上げていると、ある一軒の玄関から腰の曲がった老婆が出てきて、「お坊さん、よう来ておくんなさった」と声をかけてきた。
「お茶でも飲んでいったれや」と老婆が言い、「いねぇ、いねぇ(入れ、入れ)と」と私を急かした。
私が躊躇していると、「はいったらんかい!」とドスを聞かせた声を出した。
初めて聞く河内弁の迫力にけおされて、私は遠慮がちに家に入った。ガラスの引き戸をガラガラと開けると狭い土間があり、すぐに六畳ほどの座敷があった。
中には年老いた旦那もいた。座敷に上がれと勧められたが、足が汚れていることを理由に遠慮し、上がり框(かまち)に腰を下ろした。座敷の正面には仏壇があった。出されたお茶を飲んでいると、仏壇の中にあった三枚の写真が目に入ってきた。
一枚には飛行隊の制服を着た人物が写っていて、ほかに着物を着た人物、海軍の制服を着た人物がいた。
「息子さんたちですか?」と尋ねると、老婆は黙って頷いた。
私は供養させてくださいといって、汲んでもらった水で足を洗い、座敷に正座し仏壇の前で十五分ほど読経をした。

托鉢 5
読経を終えて振り向くと、老夫婦は仏壇に手を合わせながら泣いていた。
聞くと、今までこれほどきちんと坊さんに供養をしてもらったことがないという。
「おはぎがあるので食べていってください」と言われ、御馳走になりながら話を聞くと、夫婦には三人の息子がいたが、一番上の息子は特攻隊で死に、二番目の息子は結核で死に、三番目の息子は海軍で戦死したという。
小一時間ほど話をして、お昼時になったので、寿司でも取ろうという誘いを固辞し、立ち去ろうとした別れ際、老婆は前掛けのポケットからくしゃくしゃになった紙幣を取り出し、私に背を向け手で懸命にしわを伸ばしてから、私に手渡そうとした。
それは一万円札であった。夫婦の暮らし向きが苦しいだろうということは、家の中の様子から見て取れた。その一万円は貴重な年金であろう。私は受け取ることを躊躇した。
すると老婆は私の手を取り、その一万円札をぎゅっと握らせた。托鉢行では喜捨を受け取ることは相手に功徳を積ませることでもあり、拒否はできない。
私の目からは涙があふれた。私はその一万円を頭陀袋(ずだぶくろ)にではなく、懐に入れた。
その一万円を私は一日中持っていたが、結局、自分の為に使うことができなかった。
翌日、私は孤児院を訪れてそのお金を寄付した。

出会い 1
托鉢の旅は五月から始めた。最初、近隣の岐阜市内から始めて名古屋、四日市、三重に入り伊勢神宮にお参りした。
六月から七月には中津川から中山道に入り、妻籠、馬籠を歩いた。
島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で「木曽路はいつも山の中」と旅情を歌った道だ。
長野に入り、飯田、松本を経て、諏訪大社に参詣し、それから善光寺を詣でた。野沢温泉では湯に浸かった。ここから飯山に抜ける道は白樺並木でとても風情があり、好きだった。白隠禅師の師匠である正受老人が作ったとされる正受庵には、一週間の投宿をした。
それから新潟の妙光山に登り、電車で群馬に移動し赤城山に登った。栃木では日光東照宮に参詣し、埼玉を経て東京に来た。
それから、一度自宅に戻り、しばらく体を休めてから、八月、大阪に行った。そこから堺に行き、富田林を通り橋本に行った。
その後高野山に登り、そこで四国八十八か所を廻る祈願をする。九月から十月にかけて、この八十八か所を廻り、再び結願寺である高野山に登って終わる。
十一月中ごろには九州に渡り、太宰府天満宮にいった。十一月から西国三十三か所を巡る旅を始めた。

出会い 2
十二月の終わりに、三十三箇所の旅を区切る華厳寺(けごんじ)を訪れた。
お参りを終え参道を下っていく頃には、太陽がすでに傾き始めていたと思う。
土産物屋が並ぶ道を抜け、なおも続く参道を歩いていると、黄色い衣を着た一人の年老いた僧が、大きな石の上に腰をかけて休んでいるのが目に入った。
その老僧は、持っていた錫杖に寄りかかるようにして寝ているように見えた。
私が老僧の前を通り過ぎるときに合掌をすると、目があった。
その老僧はゆっくりとした動作で、私に合掌を返した。私は一礼をして通り過ぎた。
通り過ぎてからも、その老僧のことが気になり、しばらくして後ろを振り向いた。
その老僧は私を見ていて、おもむろに腕を私の方角に伸ばして、手招きをした。
私は引き返した。その老僧の脇に腰を下ろすと、私を見てやさしく微笑んだ。
私が網代笠(あじろがさ)を取ると、老僧も取った。
その風貌は痩せた顔に七福神の中の寿老人(じゅろうじん)のような髭を生やし、五分刈りの頭は白髪で、大きな福耳をしていた。

出会い 3
老僧は私に
「禅宗のお坊さんですか」
と語りかけてきた。
私は
「はい。臨済の僧侶です」
と答えた。
「次はどこに歩いていきますか」
「風の吹くまま、気のむくままです。」
私がそう答えると、老僧はにこりと笑い、首を大きく三度振って頷いた。
「お坊さまはどちらからお見えになりましたか。お衣から察するに、こちらのお坊さまではないとお見受けしましたが」
私はそう聞いた。
こちらとは華厳寺のことで、老僧の黄色い直綴(じきとつ)衣は天台宗のものではないとわかったからだ。
「高野から参りました」
老僧は答えた。
「西国三十三箇所の巡礼をしています」
「ここは最後の結願寺ですから、今日、満行されたのですか」
「ええ、私はこれで五度、三十三箇所の巡礼を満行しています」
それを聞いて私は大いに驚いた。
それからしばらくは沈黙をしていた。
私はなにを尋ねてよいか計りかねていた。
老僧の衣は薄汚れていて黄色も色が褪せていた。
一見、乞食坊主にも見える風体であったが、私はこの僧の物腰や落ち着きからただならぬものを感じていた。
私が次の言葉を捜していると、老僧が私に
「これからどうされるのですか」
と聞いてきた。
「私の師がなくなり、私は彷徨(ほうこう)しています」
私がそう言うと、老僧は微笑んで、また大きく三度頷いた。
「いつか私を訪ねてきなさい」
といい、懐から懐紙を出して、鉛筆で住所を書いて渡してくれた。
それを受け取り、私はその場を辞した。
老僧と一緒にいた時間は、小一時間ほどであっただろうか。
歩き始めて再び振り向いたときには、老僧は夕刻の陽射しの中でぼんやりとした影になっていた。それが、私の密教の師となる人物との出会いである。

裏高野山 1
西国三十三箇所の巡礼を終えた私は、一月から五月まで北海道から東北を廻る。
そして、恐山を最後に一年の托鉢の旅を終えた。
旅を終えた私は、経営コンサルタントの看板を掲げて事業を始めた。私は剃頭(ていはつ)した頭に背広を着た。主な仕事は人材育成である。私のビジネスセミナーは、とてもユニークだと評判になり、仕事は順調に増えていった。

私が旅でであった老僧の隠居寺の門を叩くのは、華厳寺での出会いから半年以上たってからのことだ。老僧が住んでいたのは、裏高野山の廃寺同然のボロ寺だった。
明治生まれというから当時の年齢は八十歳を超えていただろう。
背は高かったが、痩せていた。
親しく話をすると、この方は高野山で修業をされた大阿闍梨(だいあじゃり)であることがわかった。当時すでに真言密教に関心があった私は、仕事が休みの日を利用して、この寺に通うようになる。

裏高野山 2
最初は寺の庭を掃いたりすることから始め、こちらから教えを請うことはあえてしなかった。ある日、阿闍梨(あじゃり)が私に「あんた、山に薪を取りにいってくれんかね」と頼まれた。
それから私はこの寺を訪れるたびに背中に籠を担いで薪拾いに出かけた。阿闍梨が所有しているという山は寺から離れた場所にあり、私は何キロもの距離を歩かねばならず、寺に戻れば鉈(なた)で薪割りに精を出した。

私が阿闍梨に言われて嬉しかったことは、私の頭の形を褒められたことである。
私は映画『エイリアン』に出てくる怪物にも似た自分のとんがり頭が嫌いだった。ところが阿闍梨に言わせると、この頭の形は「霊骸(れいがい)」といい、とても珍重されるものだそうだ。
古代の中国では、この形をした頭蓋骨を持つと、未来を予知するなどの霊力を与えられると信じられ、為政者たちがこぞって求めた。そのために中国では、その形をした頭を持つ者の生首を切られるという悪行が横行したらしい。
唐の時代に入唐した円珍(えんちん)が、私と同じように竹の子のような頭を持っていたので、指導僧から、不埒(ふらち)な輩に頭を狙われるから注意するように、と言われたと伝えられている。天台宗寺門派の開祖となる円珍和尚になぞらえられたことは嬉しかったが、生首をかき切られるというくだりは愉快なものではなかった。

裏高野山 3
寺には「ちえさん」という名前の寺守のお婆さんが住んでいた。近所の寺に住む六十歳過ぎの尼僧がよく訪ねてきて、食べ物の差し入れをしていた。阿闍梨が口にする食べ物は、稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)、大豆で、白米は一切口にしなかった。玄米を食べることはあったが、「米は腹にもたれる」と言って好まなかった。
肉や魚はほとんど口にせず、尼僧が差し入れた肉や魚を食べるのはもっぱら私とちえさんであった。たまに刺身を口にすることがあったが、二、三切だった。それも醤油をつけずに口に運んだ。刺身に醤油をつけずに食べる人を初めて見た。
よく食卓に上がったのは自分で取ってきたゼンマイやワラビの山菜を、おひたしやてんぷらにした物だった。お酒は飲んだ。面白いのはビールを温めて飲んでいたことだ。冷えた瓶ビールをわざわざ火の近くに置き、温まったところでコップに注いだ。
当然のごとく泡だらけになるが、阿闍梨は、冷えたビールは体を冷やしてよくないと言って、かまわずに飲んだ。

裏高野山 4
阿闍梨はよくふらりと寺からいなくなり、何ヶ月も帰ってこなかった。
寺にはちえさんが一人いて寺守をしていた。訪ねて行っても阿闍梨がいないときは、私もしかたなく托鉢行をしたりしながら家に戻った。訪ねていって阿闍梨がいたときは、何日も寺に泊まり込むのが常だった。

阿闍梨の生活は自由気ままだった。朝は遅くまで寝ていて、十時ごろ起きることも珍しくなかった。私に対してもうるさいことを言わず、寝ていたければいつ寝ても構わないと言った。夜中にふいに寺から出ていくことも多かった。

ある晩、夜十時過ぎに出かけようとするので、「どこに行くのですか」と尋ねると、「ちょっとそこまで」と言い残して出て行った。
私はこっそりと後をつけた。阿闍梨は私がついてきていることに気がついていたが、なにも言わなかった。阿闍梨が行った先は山の頂だった。崖に突き出た岩の上に座り、座禅を始めた。座禅といっても、きちんと足を組んだものではなかった。
片膝を立て、その膝の上に肘を乗せて、頬杖をついて空の月を眺めていた。

ある冬の寒い晩、阿闍梨は毛布を持って外に行き、草の上に寝転がって、星空を眺めながら寝ようとしていた。空には北極星が高く輝いていた。
私が、「お師匠、そんなところで寝たら風邪を引きます」というと、「あんたも一緒にどうかね」と逆に誘われた。
人のことを「あんた」というのが、阿闍梨の口癖だった。誰に対しても「あんた」だった。訪ねてくる尼僧にも「あんた」とよびかけていた。寺守のちえさんだけは、「ちえさん、ちえさん」と名前をよばれていた。

裏高野山 5
阿闍梨は私と同じように全国を歩いていた。私が行った場所のことを話すと、「あまり寺ばかりに行ってもしょうがない。山を歩きなさい。そして山にある神社に行きなさい」と助言してくれた。阿闍梨の父は山伏で、阿闍梨も子供のころから山に入っていたという。
優婆塞の修験者として修業を続けていたが、五十歳の時に高野山に入り、そこで阿闍梨となった。高野山では彼を管長にしようという動きもあったと聞く。しかし、阿闍梨は権力争いに嫌気がさし、下野した。故郷が東北にあり、実家に妹さんが一人で住んでいた。晩年は度々帰郷することもあったようだ。

裏高野山 6
弟子をとらない人だった。もしかしたら、私が唯一の弟子かもしれない。
ある日、修法(しゅほう)を教えようと言われ、四度加行(しどけぎょう)を授けられた。それから私の密教修業が始まった。最初の訪問から半年過ぎた頃のことだ。
密教の修法は、すべて口伝えである。孔雀明王法、北斗護摩など、あらゆる真言密教の奥義を、この阿闍梨から手取り足取り伝えられた。山に入り、斧で木を間引いてきて、自分で護摩木(ごまき)を作らされた。私はこの山で八千枚の護摩を焚いた。阿闍梨は一週間で十万枚の護摩を焚いたこともあるという。修業は阿闍梨が遷化されるまでの五年間に及んだ。私はこの阿闍梨から得度受戒を受けている。

裏高野山 7
私はいつしかこの阿闍梨を、自分の先祖である慈海了空禅師と重ね合わせてみるようになっていた。私の尊敬する先祖はこのような人ではなかったか。いや、この人こそ先祖である慈海了空禅師が転生を重ねて私の前に現れたのではあるまいか。
結局、最後まで私は阿闍梨から名前を呼ばれることがなかった。いつも「あんた」とよばれていた。
この大恩のある師の名を、私は故あって明かすことはできない。阿闍梨が亡くなったとき、私は托鉢をしていた。知ったのは二日後のことだ。遺骨は東北の実家に帰った。

マザー・テレサ 1
ふたたび師匠を失った私は彷徨(さまよ)いはじめた。
あるとき私は、衣を着て、綱代笠をかぶり、托鉢をする姿のまま、カルカッタの空港に降り立った。私には会いたい人がいた。そして、その方の居る場所を目指した。
カルカッタの郊外にその場所はあった。当時はあばら家のような粗末な場所だった。
「死を待つ人々の家」と呼ばれるその場所は、マザー・テレサが開設したホスピスだ。私は以前、マザー・テレサが来日した折に、彼女の講演を聞いていた。

マザー・テレサ 2
誰も孤独な人間を作らない」というマザー・テレサの言葉は私に大きな感銘をあたえていた。実際に会えるかどうかわからないまま、私は門をたいた。最初に訪れたその日、マザー・テレサは隣町に行って留守だった。翌朝、訪れた時も会えなかった。昼に訪れた時も会えなかった。3日目も会えなかった。会うことを拒否しているのではないことは、対応してくれたシスターの言葉でわかった。いずれタイミングがあれば会えるであろうという希望を持って、翌日もその場所を訪れ、施設の近くにあった木の陰に立ちつくしたまま、ずっと待っていた。

マザー・テレサ 3
その日、一人の杖をついた老人が「死を待つ人々の家」の前に立った。その老人はみすぼらしい身なりをし、体もやせ細っていた。曲がった腰で、両手を前に差し出すと、門の前で座り込んだ。一人のシスターが駆け寄り、コップに入れた水を差しだす。老人は手でコップを払いのけた。またシスターはコップの水を渡そうとしたが老人はコップを拒否し、両手を差し出して、そこに水を入れるように言った。シスターは老人の汚れた手を水で洗い、その手に水を注いだ。老人は両手に注がれた水をこぼしながら口に運び、一口含むと、崩れ落ちるように地面に倒れこんだ。

マザー・テレサ 4
中からもう一人シスターが出てきて老人を助け起こすと、ふたたびコップで水を飲まそうとした。老人は頑なにコップから水を飲むことを拒んだ。それでもシスターたちは老人に水を飲まそうとした。小一時間もの間、水を飲ませようとするシスターたちと、それを拒否する老人のやり取りがあった。あきらかに老人は力尽きようとしていた。最後に、シスターはコップから水を飲ませることをあきらめ、布に水を吸わせて老人の口に運んだ。
老人は濡れた布から水を吸った。そして安堵の表情を浮かべ、涙を流し、何か言葉を口にして、事切れた。施設の中から、また何人かのシスターが出てきて、老人の遺体を部屋に運び込んだ。そのすべてを、私は少し離れたところで見ていた。

マザー・テレサ 5
私が呆然とその場で立ちすくんでいると、施設の中から小柄なシスターが出てきて手招きした。私は周囲を見渡し、私が呼ばれていることに気がついた。そばに近づくと、手招きしたシスターはマザー・テレサ本人だった。マザーは、私がここに来たことを最初の日から聞いていたと言い、「日本のお坊さんでしょう?」と尋ねた。私は合掌してから、「はい、そうです」とうなずいた。マザーは私の手を取った。そして私の腰に手をかけ、部屋に招き入れた。
マザーが作った「死を待つ人々の家」は、路上で死にそうになっている人たちを連れてきて、最期を看取るための施設だ。ヒンドゥ教徒の国で、カトリック修道女が良く思われるはずもなく、当初は地元の強い反発があったと聞く。死にゆく人たちへの奉仕を無駄なことと考える人たちもいた。しかしマザーは、最期の一瞬でも人が大切に扱われることの必要性を説いた。

マザー・テレサ 6
マザー・テレサは言う。
「見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」
私が見た先ほどの男性も自分の死期を悟り、ここへ来た。彼は異教徒からの施しをいさぎよしとせずにコップの水を拒んだが、最期にシスターらの優しさに触れ、感謝の言葉を述べた。そして来世では人のために尽くしたいと語ったという。老人と見えたが、実際は四十代だったそうだ。インドには彼のような恵まれない人々が多くいて、マザー・テレサは彼らの為に一生をささげた。
私は来訪の目的を、自分が師匠を失いどのように生きたらよいか迷っていて、ここに来ればなにかわかるのではないかと思ったと告げた。マザー・テレサの言葉はこうだった。
「あなたが日本という素晴らしい国に生まれ、男性であり、いま僧侶であるという事実は変えようのないことでしょう。ならば、その運命を受け入れ、出来ることを坦々としなさい」
ミルクティーを頂きながら話した時間は二十分程度であったろう。しかしこの出会いは、私に大きな覚醒をもたらした。それ以来、私は宗派にこだわらずに自分の道を行こうと心に決めた。

霊場 1
私は日本の霊場を回っていた。北海道の剣山、東北の出羽三山、恐山、岩木山、磐梯山、早池峰山、葉山、関東の高尾山、赤木山、筑波山、日光山、大山、榛名山、箱根山、北陸の白山、立山、石動山、八海山、妙高山、中部の富士山、木曽御嶽、戸隠山、秋葉山、飯縄山、伊豆山、金峰山、養老山脈、伊吹山、御在所岳、近畿の熊野、大嶺山、吉野山、葛城山、金剛山、比叡山、比良山、愛宕山、笠置山、鞍馬山、生駒山、中国地方の後山、四国の石鎚山、剣山、象頭山、九州の英彦山、開聞岳、求菩提山。
サラリーマン時代に休日を使って登山した山もあり、托鉢行で旅をしながら行った場所もある。高野山で大阿闍梨(だいあじゃり)について修業していた間も、折を見ては各地を回った。何年もかけて私は日本の霊場と呼ばれる場所を歩きつくした。行った先で、いつも国土地理院の発行する地図を買って持っていて、それをつなぎ合わせて大きな一枚の日本地図を作り上げた。

霊場 2
西洋にレイラインという考え方がある。イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが、二十世紀の初頭に提案した考えだ。彼はイギリスにある巨石遺跡群が一直線上に点在することを発見した。巨石遺跡がある場所の地名に、アームレイ、キナーズレイ、ウォーブレイなどレイで終わる場所が多いことから、この古代の聖地をつなぐ直線をレイライン(Leyline)と名づけた。レイ(Ley)という英単語は草地という意味だが、古い用語法に「光」と「まっすぐな道」という意味がある。以後、世界中で霊的な場を結びつける直線を探すレイハンターが多く現れた。私もこれに倣い、地図のうえで、実際に行った霊場に丸をつけ線で結んだ。その何本もの直線が重なったところに高賀山が日本という国のちょうど中心にあると確信していた。現在、高賀山があるのは関市だが、この関を境に、東を関東、西を関西といった。

霊場 3
私が師事した阿闍梨は、日本という国が持つ神秘の力を信じていた。私が歩いた道のりを阿闍梨は先に歩いていた。阿闍梨が遷化したあと、私も師匠を見習い、夜空を見上げるようになった。十五夜には月を相手に酒を飲んだ。冬の夜空は北斗七星が高くなるので、毎晩のように星空を見た。星の光は大小さまざまに地上に降り注ぎ、その光の大小に応じた山をつくる。山は地の星なのだ。密教で行う北斗供(ほくとく)の本尊は北斗七星である。高賀山を巡る六つの神社は、高賀山を北極星とした北斗七星を模している。

霊場 4
高賀山は「秀でて高き故まためでたい」という意味で名付けられたという。その由来が高賀神社に伝わる「高賀宮記録」に記されている。
「そもそも当宮(高賀神社のこと)の始まりは、霊亀年中より夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交い、人々を驚かしては、北東の方角へ飛び去って行った。
養老元年、御門より都の北東の位置にある山々を捜索するよう藤原家の家臣に命令が出された。藤原家の家臣団は、当山をはじめ、方々の洞、谷を捜索しても怪しい光の出所は解らなかった。数日、当所に留まったがその正体は知れず、そのまま都へ帰ることもできず、当山麓に神壇を設け、国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋?根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊・天御中主尊・太玉命・天児屋根尊・猿田彦尊・金山彦尊・日本武尊を御本神とした。
八百万の神を鎮座させ、十七日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。」(「高賀宮記録」訳 『洞戸村史』)

霊場 5
光は星や隕石とも通じる。 昔は、星が山に落ちてきて、それが、金、銀、銅などの鉱物になると信じられてきた。 私は船戸氏の紹介で高賀神社の宮司と知遇を得た。 宮司は、かつて山師として仕事をしていたことがあり、鉱脈を探して山に入ったという。 この宮司も武藤姓だった。 名前を武藤三郎といい、よくよく話を聞いてみると私とは遠縁の親戚同士で、私の父方の祖父である武藤徳之助のことを知っていた。 母方の祖父である石場金治のこともよく知っていた。 若い頃、よく祖父と一緒に山に入ったと教えてくれた。
高賀山では多種の鉱物が採取された。 そのことは修験者と深い関わりがあった。 山を舞台に生活を営む人々ー金属採取者、木地師(きじし)、杣人(そまびと)、狩人、鉄山師、炭焼きーは、平地を生活の場とする農耕民とは違った特別な存在と見られていた。 山伏といわれる修験者は、そのような山の民と関わりを持ちながら、独特の文化を形成していったのだ。 鉱山の発掘は戦国大名が本格的に始める以前は、山伏が行っていた。 修験道における護摩などの火を使う修法は、その根底に鉄などの精錬を行う踏鞴師(たたらし)などの金属文化との関わりを暗示している。
彼らの火を扱う技術は、きわめて聖なるものとして秘術になったのだ。