釈正輪回顧録

運命と宿業 1.導かれて

私が最初に行った山岳行場は白山だった。
天台宗の修行僧だった当時の私にとって、白山は是非とも登っておきたい山の一つだった。白山には三度登頂したが、二度目に登ったときに不思議な光景を見た。

未明の山頂で御来光を待ちながら読経をあげていたときのことである。空が白々と空けてくる頃、北の山肌に人影がぼんやりと立ち現れ、その周りを後光のような光の輪が囲んだ。いぶし銀のように輝いて見える影の形はちょうど御仏の座姿のようであった。
これはブロッケン現象と呼ばれる自然現象なのだが、そのときは知識がなかったので、とても神秘的な体験に思えた。実は光の屈折が作り出す蜃気楼で、人影に見えたのは自分自身の影だった。山を降りてそれを聞かされたときは、ひどくがっかりしたことを覚えているが、貴重な体験だった。この現象は御来迎(ごらいごう)とも呼ばれ、昔は阿弥陀如来が姿を現したと考えられていたそうだ。

不思議なことは、三度目に白山に登ったときにも起こった。やっとの思いで山頂にたどり着き、息も絶え絶えにリュックサックを下ろし座ろうとしていたときに、何処からともなく「こうか、こうか」と言う声が聞こえた。 その時は気のせいだと思い、あまり気にも留めなかったのだが、下山のとき七合目あたりで、「こうか、こうか」と繰り返す声がはっきりと聞こえた。私は不思議な心持に囚われたまま山を降りた。

1. 導かれて 2

その声のことがいつまでも気になっていた私は、実家に帰った折、母にそのことを告げた。
おかしなことを言うと返されると思っていたが、母の返事は意外なものだった。
「それは高賀山のことやろう」と言った。
「高賀山てなんや?」
「洞戸(ほらど)の高賀山やがな」
「実家のある洞戸か?」
「そうや」

両親の実家は岐阜の洞戸(現在は関市洞戸地区)というところにあった。
子供の頃によく訪れた土地だが、高賀山のことはそのときまで知らなかった。
しばらくしてから、岐阜市内にある自宅から車で一時間ほどかけて、その場所を訪れてみた。
国道265号線を板取川に沿って北上すると洞戸村に着く。
高賀山はその北端にあった。

1.導かれて 3

標高1224メートルのその山は岐阜県の中濃地区で一番高い山だ。
瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)と共に高賀三山と呼ばれ、大きな山塊をなしている。

山腹には高賀神社があった。
神社の近くに円空記念館があって、この場所が円空ゆかりの地であることが分かった。
円空とは江戸時代の前期に活躍した天台宗の僧侶で、「円空仏」とよばれる多くの木彫りの仏像を作った仏師として知られていた。
美濃国(現在の岐阜)に生まれ、白山信仰の修験者(しゅげんじゃ)となった。

修験者というのは一つの寺に定着せず、あちこちの霊山を巡り修行するものをいう。
円空は日本各地を巡り仏像を残した。
その数は十二万体におよぶという。
その彼が晩年を過ごしたのが、高賀だった。

私は記念館に納められた三十体あまりの仏像を眺めて大きな感銘を受けた。
円空は優婆塞(うばそく)の修験者から、後に禅・真言密教を経て、天台宗寺門派の僧侶になっていくのだが、私も同じ経験をしていることを思うと強い因縁を感じずにはいられなかった。
優婆塞とは在家の仏教信者のことだ。

1. 導かれて 4

私は禅宗から仏門に入り、この場所を訪れたときは天台宗の修行僧であった。
後に真言宗の修行をすることになるのだが、関心はつねに山岳信仰にあった。

私はその頃、毎月どこかの山に登っていた。
帯広の剣山、出羽三山、富士山、立山、木曾御嶽山、伊吹山、養老山脈、御在所岳、熊野三山、葛城山、四国の剣山、石鎚山、英彦山、求菩提山、開聞岳、などである。
修行で訪れた場所でもあり、普通の登山の場合もあった。

最初に訪れてから私は『洞戸村史』等を手に入れ高賀山を調べ始めた。
するとそこが、かつて白山の禅定門(ぜんじょうもん)と呼ばれた山であることを知った。
この地には奈良時代の中期から多くの修験者が集まり修行の場とした。
修験者は高賀山を入り口にして峰々をつたい白山まで行ったそうだ。

私は何度か高賀山に登り白山への道を探したが見つけられなかった。
しかし、その頃には高賀という山の魅力にとらわれ逃れられなくなっていた。
調べるほどに、この土地と私の因縁が深いことがわかってきたからだ。

2. 因縁

私の俗名は武藤であるが、この地には多くの武藤姓が住んでいた。
私は自分の先祖を調べて、五代前と六代前、七代前の先祖に僧侶がいたことが分かった。
五代前は禅海道喜(ぜんかいどうき)禅師、六代前は豊恂義覚(ほうじゅんきかく)大和尚、七代前は慈海了空(じかいりょうくう)大禅師と名乗る江戸時代中期の人だった。

慈海了空大禅師は真言密教を研鑽し、後に天台宗の僧侶になり晩年は禅師の号を授かり七十四歳で遷化(せんげ:亡くなること)した。
慈海了空大禅師は高賀山、瓢ヶ岳(ふくべがたけ)、今淵ヶ岳(いまぶちがたけ)の三山を一昼夜山駈けし、六神社を参拝する抖藪行(とそうぎょう)の中興の祖であった。
抖藪行(とそうぎょう)とは歩く修行のことである。

長良川と板取川に挟まれた高賀山脈には、高賀山の山脈に高賀神社があり、山の北側に本宮神社、新宮神社、東側には星宮神社が鎮座し、瓢ヶ岳の南の山麓には金峰神社、今淵ヶ岳の南の山腹には瀧神社がある。
この六社をめぐる「高賀六社めぐり」という信仰集団が形成され、江戸時代の中期から後期にかけて活躍した。
慈海了空大禅師はその中心的な存在だったと思われる。

3.神仏習合

神社仏教の修行の場となるのは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)という日本独特の信仰形態があったからだ。
渡来の宗教である仏教は古来の神道融合し、神と仏は同等のものに考えられるようになった。
奈良時代から神社には神宮寺といわれる寺が建立された。
高賀山にも養老7年に蓮華峯寺(れんげぶじ)という神宮寺が創建されている。

修験道とよばれる山岳信仰もまた神仏習合思想によるものだ。
山を神とする古来の信仰に、神道、仏教、道教などの思想が組み合わさったこの独特の宗教は、奈良時代に確立した。
白山信仰が有名だが、高賀山も高賀権現(ごんげん)として奈良時代から信仰されてきた。
権現とは神の仮の姿をいう名前だ。
修験道の実践者を修験者(しゅげんじゃ)といい山伏(やまぶし)ともいった。
彼らは山に籠もって修行をすることにより、様々な「験」(しるし)を得ることを目的とした。

慈海大禅師は高賀山で千日回峰行を三度満行(まんぎょう)したとつたえられている。
千日回峰行とは、千日の間休むことなく山の峰を歩くとそうぎょうである。
相応大師が比叡山で始めた回峰行が現在まで伝わり有名なので、千日回峰行というと比叡山の専売特許のように思われがちであるが、全国にはこのような山岳霊域が五十以上あると言われている。
いつしか私は、先祖である慈海大禅師が高賀山で行った千日回峰行を復興したいという思いに囚われた。

4. 木作 1

初めて高賀の地を訪れてから数年がたった。
その間に高賀神社の宮司第49代、武藤三郎氏知遇を得て、私は千日の発願を立てた。
私は托鉢の最中に比叡山を訪れ、千日回峰行者が歩く行者道を歩いてみた。
そのときに、これなら私にも出来ると思った。
ただ天台宗の本山である比叡山でやりたいとは思わなかった。

当時私は天台宗の僧侶であったが、やたらに金ばかりかかる宗門にうんざりしていた。
得度にも僧籍を得るのにも金ばかりかかった。
それにあまりにも堕落した僧侶の世界を見ていた。
そんなことから、私は自分の因縁の地である高賀山で比叡山やほかの山に対抗して、千日回峰行を復興したいと思ったのだ。

千日回峰行をやるにあたり、私は木作(きつくり)にある父の実家に世話になることにした。
家の前に板取川が流れ、三千淵(さんぜんぶち)があった。
ここは、かつて織田信長によって三千人の僧侶が殺された場所と言い伝えられている。
現在の洞戸村の人口は300人ほどでしかないが、信長の時代には三千人の僧侶が集まるほど、洞戸は蓮華峯寺を中心に栄えていた。
蓮華峯寺の寺歴は失われたらしく、残ってはいない。
創建が養老七年といわれる奈良時代から続く由緒のある寺だった。
信長は何故ここを攻めなければならなかったのだろうか?

4. 木作 2

木作という地名は、ここが木地師(きじし)の里であったことを表している。
木地師とは、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤(ろくろ)をまわして椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人達のことだ。
朝廷の由来書を持ち歩き、山々を自由に渡り歩くことが出来た。
木作の近くには小倉という地名があった。
これも木地師に多い名で、この地域一帯が木地師の里であったことを物語っている。
木地師の祖は惟喬親王(これたかしんのう)といわれる。
惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したというのが伝説だ。
発祥は滋賀といわれるが、一説にはこの木地師が忍者の祖ともいわれる。
峯々をつたって各地を巡る木地師は広範な情報網を持っていた。
その一部が戦国大名と結びつき隠密行動をするようになったと考えることは、不自然なことではない。山伏もまた峯々を歩いた。木地師は忍者と山伏の先祖で、両者は同じものだった。
史書を紐解いてみると、この高賀の里の民が甲賀の忍者のルーツであると考えられる証拠がある。
修験道が盛んなこの土地の僧侶を信長が殺さなければならなかった理由も、彼らの諜報活動にあった。
彼らを殺すことで信長は自分にとって不都合な事柄を歴史の闇に葬り去ったのだ。
そんな歴史の因縁を知るにつけ、私は自分に課せられた使命を感じずにはいられなかった。

5.千日回峰行 1

千日を行う前に、百日の前行、四十九日の加行を修し、武藤宮司から初めて入峰を許された。
回峰行は四月一日から始めた。
毎朝午前一時半に起床し、洗面を済ませると、そば粉と荒塩を混ぜて捏ねた団子と、こうせん粉に少しの砂糖を混ぜた団子を作り、袋に入れて出発する。
山は漆黒の闇に包まれていた。山に入るためには禊は不可欠である。

私は着ていた作務衣を脱いで岩場の上に置き、川の中へ入った。
四月の高賀渓谷には山頂からの雪解け水が流れ込んでいる。水の冷たさが身体を打つ。
私は一心に真言を誦(じゅ)した。
水からあがると私は先ほど脱いだ作務衣をリュックサックにしまい、持ってきた荷物の中から鈴懸(すずかけ)を取り出した。
それから掛衣(かけごろも)を首から掛け、貝ノ緒(かいのお)を巻き、尻には引敷(ひつしき)を当てる。白足袋を足に着け、手甲脚袢(てっこうきゃはん)を手足に付け、頭巾(ときん)を額にあてた。
錫杖(しゃくじょう)を手に持ち、法螺貝(ほらがい)をくびからつるし、短刀を腰に納めた。
山伏の修験装束である。禊を終え、蓮華峯寺観音堂で読経を終えると午前二時を回る。
高賀神社で祝詞をあげ終わるのが午前三時半である。

高賀神社の前の林道をしばらく行くと登山口が現れる。登山道は厳しい岩場である。
私は暗闇の中を一歩一歩、足で岩をとらえて登り始めた。

5.千日回峰行 2

山の中腹に不動の岩屋と呼ばれる場所があった。
不動の岩屋は大きな二枚の岩が重なってできていて、上の岩の下にも、下の岩の下にも大きな空洞があり、人が何人か入ることができる広さがあった。
その岩屋を通り過ぎると、石が階段状に連なる急勾配が続く。

吐息が白くなった。四月の高賀山にはまだ雪が残っていて、木々はまだ新芽を出す前だった。
里ではようやく梅の花が咲こうとしている時期のことである。

御坂峠を越えると尾根道が続く。まだ未明に山頂に着き、明けの明星を眺め、そこで再び読経を行う。しばらくすると、遠く木曾御嶽山の方角が白々と明けてくる。
やがてご来光を仰ぐと、私は肩から掛けた法螺貝を取って吹いた。
太陽はやがて山の麓を照らし、私は山頂から自分の育った場所を見下ろした。

私は自分がここにたどり着くまでの因縁に思いを馳せた。
因縁とは因果の理(ことわり)のことだ。この世の全ての事柄は原因と結果によって成されている。
ヒンドゥ教(初期バラモン教)などでは前世の業により現世が形成されると教義しているが、仏教の宗祖である釈迦は更に縁起を説いた。
縁起は縁ともいい、全ての出来事は縁がある。仏教ではそれを因果律といっている。
人は前世からの因縁によって現世の生を受ける。祖先に僧侶がいたが、私の父と母は無信心だった。私は宗教とは無縁の環境で育ち、奇妙な縁で仏門に入った。

6. 定め

行を行うものはそれによって得られる名誉栄達を求めていると思われがちだが、そうではない。
比叡山で千日回峰行を二回満行された酒井雄哉氏にしても、仏門を志すきっかけに妻の自殺があったという。そこには言い尽くせぬ苦しい思いがあったに違いない。

人は誰しも業を背負って生きている。
この業は宿命とも宿業ともいい、ときに「定め」ともいう。
自分はやくざの息子に生まれたという定めが、私を苦しめつづけた。
変えられない定めに、私は何故生まれてきたのか、何をなすべきなのかをいつも考えていた。

千日回峰行は、行の途中で挫折をすれば自ら命を断つ掟を持つ。
私は挫折したら死ぬ覚悟を決め、そのための短刀を持ち腰につけていた。
山頂でまず唱えるのが懺悔文である。

我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

「我れ昔より造りし所の諸々の悪業は、皆、無始の貧瞋痴に由り、身語意より生ずる所なり。一切、我れ、今、皆、懺悔したてまつる。」

これは、「私が昔から作ってきたいろいろの悪い行いは、みな避けがたい貪りと怒りと無知による身体と言葉と意識のなす行為から生じたものであります。その全てを、今、御仏の前に悔い改めます」という意味である。

私は自分の生い立ち、そして若き日の悪行を恥じていた。
回峰行を始めて最初のひと月ほどは肉体的に精一杯だったが、五月ともなると徐々に身体も慣れてきて、ものを考える余裕がでてきた。
そうすると心に浮かぶのは過去のことばかりになった。
私は自分の過去を思うと、このまま山で死んでしまっても構わないとさえ思うようになった。

7.夏の光 1

高賀山での夏のご来光は五時半だ。
東の空から西に流れる雲の端が明るく輝き始めると、私は山頂から少し降ったところにある天狗岩に登って法螺貝を吹いた。
登ってくる太陽に向かって三礼をして護身法を切る。
「いらたか」とよばれる算盤玉の形をした念珠をすり合わせた。
錫杖(しゃくじょう)を振りながら、懺悔文、開経偈(かいきょうげ)、般若心経を三巻読み、回向文(えこうぶん)を唱え、消災呪(しょうさいしゅう)、大悲呪(だいひしゅう)を一巻読み、ふたたび回向文を唱えた。
次に太陽に向かって大日如来の真言を二十一回唱え、北に向かって釈迦如来の真言を十七回、東に向かって薬師如来の真言を十七回、南に向かって阿閦如来(あしゅくにょらい)の真言を七回、西に向かって阿弥陀如来の真言を七回唱える。
それから光明真言(こうみょうしんごん)を二十一回唱え、本覚讃(ほんがくさん)を一遍、四弘誓願文(しくせいがんもん)を三遍唱え、「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼしわれら衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と回向文を唱えた後、法螺貝を吹き、太陽にむかって再び三礼をした。
それから腰をおろして、お供えしてあったそば粉の団子とこうせん粉の団子を食し、水筒に入れてきた熱いお茶を飲んだ。

早朝の山頂は涼しくて心地よい。
東の方角には御嶽山が見える。西には伊吹山、南の方角には白々ヶ峰が連なり、北の方角には蕪山が間近に見える。山の自然にもすっかり親しんできた。

7. 夏の光 2

私は腰を上げて、熊笹に囲まれた登山道を下り始めた。 御坂峠に差し掛かると、あたりは杉や檜などの人工林だ。 この先に峰稚児(みねちご)神社がある。大きな岩の上に立てられた小さな祠だ。 高賀神社の奥の院として、かつては多くの修験者が訪れた。 江戸時代には円空上人による雨乞いの祈祷が行われたという記録もある。 私はここでも法螺貝を吹き祝詞を挙げた。

登山道を五合目まで下ったところに不動の岩屋がある。中に入り蝋燭を立て読経をする。 しばらくの間、姿が見えなかったマムシたちが、また現れるようになった。マムシは三匹おり、それぞれの縄張りである岩の間に寝そべっていた。当初はとぐろを巻き警戒する様子を見せていたが、私が毎日そこに現れることがわかると、体をだらりと伸ばし鎌首をもたげることもなく、静かに私の読経を聞いていた。

岩屋を出て沢沿いの坂道を下る。足で岩を捉えて降りるのだが、毎日繰り返しているうちに、どこにどんな石があるかすっかり覚えてしまった。いまでは目をつぶっていても歩くことができるほどだ。
暑さで汗をかいていたが、岩の下を流れる水の音が涼しげで心地よい。

藪の中で猪が地面を掘っているのが見えた。ウリ坊を二匹連れているからメスだろう。 そのウリ坊がとてもかわいいのでしばらく見とれていたが、親猪が気配に気がついてこちらを見たので、あわてて足早にその場を立ち去った。野生の動物は目を合わせると危険だ。

途中、双葉葵(ふたばあおい)が群れて生えている場所を通ったが、葉っぱが食べられていて葉柄だけが残っていた。おそらく鹿だろう。 秋に日本カモシカが五、六頭で群れを作っていたのを目撃した。群れを見るのはとても珍しいことだ。

沢に小さな渡し木がかかる場所があり、その近くの岩の上でガマガエルが私を出迎えた。一匹の同じガマガエルがいつも同じ岩にいて、私が近づくと必ずホーッと鳴く。
このガマガエルの頭を撫でるのが私の日課だった。ガマガエルの皮膚はぬるっとしていて、確かに油を出しているようだった。ガマの油というのは本当に効くのか試してみようと、笹の葉で切った腕の傷に塗ってみたことがあるが、真っ赤に腫れ上がってしまった。ガマの油の口上はあまり信用がおけない。

木の上から山蛭が落ちてきた。山蛭は、私が下を通ると狙い定めたように首筋から背中に入った。私が山を降りて装束を脱ぐ頃には、沢山の血を吸い、真っ赤に膨れあがっていた。多いときには二十匹もの蛭が体に張り付いていた。吸われた後の痛みもさることながら、白い装束が赤く血で染まるのが困り物だった。

沢地を抜けると人工林が続く。現在の高賀山は、杉や檜などの針葉樹の植林が進み自然林が少なくなっている。人工林には野生の動物が住むことができない。最近はこれらの動物らが里に現れて、作物を荒らしているという。山奥に食べ物がなくなったせいだ。林道を通す計画が修行をしているこの時期に始まったが、それが出来ることによる自然破壊を思うと私の心は痛んだ。