【釈正輪メルマガ1月29日号】日々是好日

【因果の道理】

昔は、季節の変わり目にあたる立春、立夏、立秋、立冬の前日がすべて節分とされていました。一年の節目にあたる春の節分に重きが置かれはじめたのは、室町時代からだそうです。厄年や還暦などの始まりは、立春からと考える人も多いようで、節分が大晦日でもあるわけです。

さて、季節の変わり目には悪鬼が出てくるといわれ、豆と言う言葉が「魔滅」の発音と通じることから、「鬼は外、福は内」の掛け声で、豆まきをする習わしが始まったとか。数え年で自分の歳の数(地方によっては歳より一つ多い数)の豆を食べると、健康になるといわれています。

合掌

節分や 鬼も医師も 草の戸に

高浜虚子

『因果の道理』とはいかなるもか。私は今まで幾度となくお話をしてまいりました。それは何故かと申しますと。それこそが「釈尊(釈迦牟尼仏)」の教えの根幹だからです。

仏教を木にたとえますと、「因果の道理」は、その根や幹に当たります。釈迦の七千余巻の一切経を貫く教えが、「因果の道理」ですから、「因果の道理」を理解できなければ、仏教がわかったことにはなりません。では、因果の道理とは如何なるものかを、もう一度おさらいしてみましょう。

まず「因果」とは、「原因」と「結果」ということです。どんなことにも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一切ないと説き、しかも絶対に例外を認めないのが仏教なのです。

次に「道理」といいますのは、「三世十方を貫くもの」をいいます。「三世十方」とは、過去世・現在世・未来世の三世と、東・西・南・北・上・下・四維(しゆい)の十方のことで、「いつでも」「どこでも」ということです。いつでも、どこでも変わらないものだけを、仏教では道理といいます。「因果の道理」とは、三世十方変わらぬものは、原因なしに起きる結果は絶対にないし、結果には必ず原因があるということです。

もっと正確にいいますと、「因・縁・果の道理」といいます。それは、すべての「果」は、「因」だけで起きるのではなく、「因」と和合する「縁」が必要だと説かれているからです。例えば、「米」という「果」は、籾種という「因」だけではできません。籾種という「因」と、土壌や水分、日光や空気などの「縁」が和合して生じます。コンクリートや氷の上に、籾種を蒔いても米はできません。「氷」となる「縁」がないからです。このように、すべての「果」は、「因」と「縁」が和合して生じるという『真理』を教えているのが仏教で、それを「因果の道理」、若しくは「因縁果の道理」と表現しているのです。

特に、仏教が因果の道理で明らかにしているのが、私たちが最も知りたい、人の運命の原因と結果の関係です。それを釈尊は、「善因善果、悪因悪果、自因自果」と教えています。「善因善果」とは、善い因(行為)は、善い果(幸福)を生み出すということです。「悪因悪果」とは、悪い因は悪い果(不幸や苦しみ)を引き起こすということです。「自因自果」とは、自分に現れる善果も悪果も、すべて自分の蒔いた因によるものですから、自分が刈り取らなければならないのは当然ということです。

幸福も不幸も、自分の運命のすべては、自分の行為が生み出したものであり、絶対にそれ以外を認めないのが仏教です。他人に蒔いた因が、自分に果として現れるという「他因自果」というのもなければ、自分の蒔いた因が、他人に果として現れるという「自因他果」も、絶対にないと仏教は教えます。

しかし人間は頭ではわかったような気持ちになりますが、仏教は理屈ではありません。すべてが実践です。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まですべてが実践です。泣いても喚いても苦しんでも、それは全部自分自身の人生です。仏教を学び実践生活をし、幸せな人生を歩んで頂きたく願います。

釈 正輪 拜

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